はじめに
私は古建築の修理大工である。京都府の文化財保護課の嘱託員大工として国の重要文化財建造物の修理の仕事に携わって二七年になる。現在は清水寺・子安塔の解体修理工事に従事している。子安塔は応仁の乱で焼けた後再建された室町後期(明応九年・一五〇〇年)の小さな三重塔である。私は日々、何百年とふり積もったホコリと何百年を経てなお力強く生きている古材のなかで仕事をしている。解体修理で古材を毎日触り、眺め、考え、繕いを繰り返していると、ある時一つの部材がどのように運ばれ、どのような大工によって、どんな道具で刻まれ、どのように建てられたのか、時代の背景や風景とともに、ふっと視えてくるときがある。それが修理に携わっている技師や大工のいちばんの面白みであるのだけれど。
私は四十代のなかばに離婚問題に直面した。それから十数年、縁あって干刈あがた論を書きつづけてきた。「干刈あがた論Ⅰ」は離婚問題の渦中にあって書いたものであり、「干刈あがた再論」はそれから十年後に、もう誰も本格的な干刈あがた論を展開する人も出てこないだろうと、関西干刈あがた会の小山洋一氏に薦められるままに書き始めたものである。私の干刈あがた論の方法と私の古建築を修理する方法的な態度は全く変らない。古材を眺めていると時代の風景が視えてくるように、干刈あがたの作品を読んで、干刈あがたの姿が視えてきたときに、それを書き留め、論とした。そのような理由で、副題を干刈文学解体調査報告書とした。
二〇一一年六月五日