私は作者の自伝的小説に時々書き込まれている、都立F高校の同期生でした。
学年300人の内訳が女子200名という、旧制女学校の校風が色濃く残されていたその学び舎は、昭和30年代前半の少年達にとって、まことに居心地の定まらない場所だったかもしれません。私のような一部の変わり者を除いては。
私は3年間教室を共にした旧友の殆どを思い出す事が出来ますが、どうしても「柳和枝」の名が出てきません。高校時代に、のちに干刈あがたとなった人と私の 接点は、山岳班員と新聞班員(当時私達の高校では生徒会、体育部―山岳班、文化部―新聞班と呼称されていました)だったと思います。それも当事者以外にそ の活動の姿が見えにくい山岳班をPRする為、「F新報」という彼女達が編集していた校内新聞に毎号記事を持ち込み、紙面の一部を広報活動に利用していた訳 です。多分言葉を交わした事さえなかったと思うのです。
『樹下の家族』が単行本となった頃です。卒業して何回目かのクラス会の日に、彼女の親しい友人が作家となったその人を改めて招き、(クラスが別だったの で)作品を紹介してくれました。私はその面影を忘れてはいませんでしたし、彼女も私や私の山の仲間が高校時代校内新聞に寄稿した事をよく覚えておりまし た。私が旧友の読者となったのはそれ以来の事でした。人付き合いの不器用な作家は、限られた親しい友人達に守られ、ひたすら書き続ける事に専心していて、 以後私はその人に会う機会はありませんでした。
少年時代、無謀にももの書きに憧れ、駄文と恥をかき続けてきた者に代って、干刈あがたは幾編かの作品の中に、私が生きた時代をそっくり写し取り、書き残し てくれました。また様々な家族の物語は、発表されて一昔を経ているにもかかわらず、今日の自分の日々の姿を見詰められているような思いがいたします。
私達の同期生は後二年ほどでそれぞれ還暦を迎えます。干刈あがたが逝って以後、私達を取り囲む世界は激変しました。こんな風にホームページが出来た事を本人が知ったら、何というでしょう。多分何も言わず、困惑した顔でうつむいている彼女の姿を思い浮かべております。 |