終戦も間近い昭和20年ごろ、青梅の町にもひっきりなしに空襲警報が鳴り響き、その都度防空壕に避難するという生活でした。
ある日のこと、私の家族以外に母親と男の子二人と女の子の4人家族がいつも避難してくることに気がつきました。小さな防空壕の片隅に女の子を抱いた母親 とその側に男の子二人が座っていました。干刈あがたの家族でした。あがたの父君は警察官のため、空襲警報が鳴ると非番の日でも出勤せねばならず、家族は私 の家の防空壕に避難する手はずになっておりました。そんな中で、あがたの直ぐ上の兄(てっちゃんと呼んでいた)と仲良くなり、てっちゃんを通してあがたと も遊ぶようになっていきました。
そのころは、空襲警報がいつ鳴るかわからないため、自由に外では遊ばせてもらえず、兄弟だけで家の中で積み木や絵本を見たり、兄がかけてくれる蓄音機、 それも音を出しては戦争中なのに歌舞音曲の類は不謹慎だと、近所の人に怒られる恐れがあるので、鉄の針を手に持ってレコードの溝にあて、耳を近づけて聴い ていました。唯一の楽しみといえば、空襲警報が鳴ると干刈家の人たちと一緒に遊べるので、ひそかに空襲警報を心待ちにしていたものでした。
お互いの家が目と鼻の先にあり、大人の足なら30歩もない近さでしたし、同い年で物心ついた時から引越しするまでの幼友達でした。長い間音信不通の年月 を経て、青梅で行われていたコスモス忌を縁に干刈あがたの事を知りました。干刈あがたの年譜をみて、小さい頃の事が思い出されました。 〔青梅第2小学 校 同級生〕 |