(五)〈少女〉であることの不可能性と〈母〉であることの不可能性

   あるいは「黄色い髪」から「酒鬼薔薇聖斗」への10年

 

(1)「黄色い髪」脱稿後の神経症になった原因について

 

 「黄色い髪」は一九八七年に朝日新聞の連載小説として発表された作品である。中二の女子中学生“夏実”は学校でのいじめをキッカケに登校拒否するようになる。学校へ行かなくなってから脱色し始めた髪は、だんだん茶色くなり、やがて黄色くなる。「黄色い髪」にはどこにも居場所をみつけられない少女たちの〈生〉が、赤裸々にリアルに描写されており、同世代の少女や同じ問題を抱えている母親たちなど幅広い層の読者に共感をもって読まれ、社会的な反響も大きかった小説である。作品は、“夏実”の生活の場所である学校と家族、あるいは少年や少女たちのさまざまな風俗や生態を描きながら、“夏実”が自らの人生の修羅場に直面し、越えていく物語になっている。

 「黄色い髪」は“夏実”の物語であると同時に母“史子”にとってもひとつの修羅場であるように描かれている。というより「黄色い髪」は当初、干刈あがたのそれまでの作品-たとえば「ウホッホ探検隊」や「ビッグフットの大きな靴」のような(干刈あがたにとっては手慣れた)母の視点で描かれた小説として構想されていたらしい。

 

 下書きの段階で私は、これを母親の視点で通して書いていました。しかし、それでは母親の場と娘の広がりの違いなどが出ないので、母親史子の視点の章と、娘夏実の章を交互に書くことにしたのですが、夏実の気持ちを内側から書くことができるだろうか、という怖れが深くありました。

干刈あがた“『黄色い髪』の連載を終えて”朝日新聞一九八七年「40代はややこ思惟いそが恣意」所収

 

 “夏実”の気持ちを内側から書くために、干刈あがたは何人もの十代の人たちと話したり、一緒に街を歩いたりしている。また、干刈あがたの長男が高校進学しなかったことによるさまざまなリアクションのなかで、考えさせられたことが「黄色い髪」という小説のベーシックなモチーフになっている。さらに“夏実”という少女像は、どこかで少女時代の干刈あがた自身の姿とも重なっている。これらすべてがそそぎ込まれて“夏実”という少女像は創られている。

 「黄色い髪」を脱稿後干刈あがたは神経症になっている。連載を終えたよく年の「アンモナイトをさがしに行こう」はその後遺症(?)のなかで書かれた「黄色い髪」の続編のような作品である。その頃の吉本ばななとの対談で

吉本 干刈さんの場合、私生活と文学はどれくらい関係がありますか。
干刈 エッセイと小説があまり違わないなと思ったりして、自分でもよく距離がとれなくて気恥ずかしいわね。さっきばななさんが小説を書こうと思っていて、他のことがなおざりになっていたのがもったいないというようなことを言ったときに、むしろ私は逆で、何げなく暮らしていることが全部、小説のもとになっているような感じがあるのね。

と自分の小説について語っている。もともと干刈あがたの小説は、どこまでがフィクションでどこまでが実体験なのか境界が見極められない文体が特徴である。しかし、脱稿後に小説家が神経症になるというのは、かなり特異なことのように思われる。

 干刈あがたの人生にはほんとうに危うい時期ー死の近くまで行ってひきかえすということが何度かあり、それがどこにも出口をみつけられない“夏実”という少女像によって呼び覚まされ、干刈あがたの内部で収拾がつかなくなるほど、危うい時の自身が甦ってしまったのではないだろうか。「アンモナイトをさがしに行こう」という作品は、精神のバランスを失った干刈あがたが再び日常的な地平まで帰還するために書かれたものとして読むことができる。「アンモナイトをさがしに行こう」は、小説ともエッセイともつかない作者のモチーフの切実さだけで描き継がれていった作品である。第二十三話は“矯正協会発行新聞『わこうど』”と題され、少年院や少女苑の院生たちの文章を紹介している。作中に挿入された少女苑の院生たちの感想文のあとに組み入れられた著者自身の「随想 銀紙の馬」(『わこうど』に寄稿した文章?)を読むと、彼女がどのように自らの精神を沈静させていったのか、どこへ帰っていったのか、わかるように思う。

   

     随想 銀紙の馬

                                       西山ひかり

 私は四十代の大人だけれど、ときどき「タイムスリップできるといいのに」とか「人間が愛し合う薬があったらいいのに」とか「透明人間になれたらいいのに」などと、子供の時に考えたのと同じようなことを考える。

 

 私が生まれたのは昭和十八年の戦中で、二歳の時に戦争はおわった。子供たちもみんな、戦後の貧しさを背負っていた。

 父親が戦死したために、母親が働きに出ている家の三人姉妹は、いつもボロボロの服を着て留守番をしていた。でも遊び友達はみんな仲良しで、陽当たりのよいその家の縁側で、お手玉やオハジキをして遊んだ。馬が戦争に取られたために失業した馬車屋の家の子は、いつも裸足だった。でもメンコがめっぽう得意で、自力でメンコを稼いでいた。

 私は兄の一人を栄養失調でなくし、もう一人の兄も肺結核で入院していた。だから六歳の私も家計を助けるために鶏を飼い、卵を売った。ようやく兄は元気になって退院し、少年相撲の三人勝抜きに勝って、私のために絵日傘の賞品を取ってくれた。

 

 もしタイムスリップできるならば、今の無駄を風呂敷に包んであの時代に戻り、幼な友達や昔の私自身に届けたい。その時は、風呂敷の中に、チョコレートやキャンディの銀紙をたくさん入れて昔に戻りたい。

 

 栄養失調で死んだすぐ上の兄は、銀紙で馬をつくるのが上手だった。フトンの上に座って、よく馬をつくっていた。兄のつくった馬は、手のひらに乗せるとちゃんと立った。

 でも、あのころはチョコレートやキャンディは貴重品だったから、銀紙もたまにしか手に入らなかった。このごろは銀紙なんてぽんぽん捨ててある。ときどき私はそれをひろって、一枚一枚のばして重ねる。ときどき銀紙で馬をつくってみる。でも私の馬は立たない。

 あのシャリシャリいう音も、たまに手に入った、たった一枚の銀紙の音のほうが、ずっと美しかったような気がする。

 

 もしタイムスリップできるならば、あの美しい音を風呂敷に包んで、今の時代に戻ってきたい。あの時代の、貧しかったけれど、心の自由だけはあった空気を風呂敷に包んで、今の子供たちに分けてあげたい。もしかしたら、物やお金はあるけれど、心の自由や愛や夢のない今の時代の子供のほうが、ずっと不幸なのかもしれない。

 

 私の父と母は仲が良くなかった。夜、父の怒声や母の泣き声を聞きながら、人間が愛し合う薬があったら、それをお茶の中に入れておくのにと思った。だから自分が親になったら、夫婦喧嘩だけはするまいと思った。でも、私は子供たちの前で夫婦喧嘩はしなかったけれど、子供たちは自分の両親の仲が冷たいことは感じていただろう。自分の両親が離婚する時、私の二人の子は、父と母のコーヒーに、人間が愛し合う薬を入れたいと思ったかもしれない。

 

 親としても、もしタイムスリップできるならば、あの時ああすればよかったかもしれない、と思うことが少なくない。

 

 私は三十九歳という遅い年齢で小説を書き始めた。昔のことを書く時は、タイムスリップしてあの時代の悲しみを風呂敷に包んでこちらの時代に持ち帰ったり、あの時代に死んだ子の命をひそかに生き返らせているような気がすることがある。

 今の時代のことを書く時は、ある人の思いを他の人に伝える透明人間になっているような気がすることがある。鉛筆は魔法の杖かもしれない。でも、人間が愛し合う薬になるほどのものはなかなか書けなくて、タバコの空箱ばかり量産されていく。

 今日、久しぶりにタバコの銀紙で馬をつくったけれど、やっぱり私の馬はまっすぐには立たず、首をかしげて考えこんでいるような姿になってしまった。

(作家)

 

 干刈あがたが「あの美しい音を風呂敷に包んで、今の時代に戻ってきたい」という時、ノスタルジックに昔を懐かしんでいるのではなく、自分が少女として育った時代の終焉と現在という時代に生きる少女たちの困難さを確認しているのだと思う。「タバコの空箱ばかり量産しながら」干刈あがたが描いた小説は、家族であることの困難さだったり、夫婦であることの困難さ、母であることの困難さだったりした。

 干刈あがたはここで、自分の本来の作家としてのモチーフを再確認し、作家として帰っていく場所を確しかめているのだと思う。

 干刈あがたはこのとき気がついていなかったかもしれないが、「黄色い髪」を書き終えて神経症になったほんとうの理由は、“夏実”という〈少女性〉の解体(不可能性)と干刈自身の〈(アジア的な)母性〉の解体が、同じ時代の転換によってもたらされたものであり、少女であることの不可能性と母であることの不可能性が相乗的に共震し、それを干刈あがたがまともに受けとめてしまったからだと考えられる。そして、この〈少女性〉の解体が〈母性〉の解体でもあるような二重性を表現するために「母親史子の視点の章と娘夏実の章を交互に書く」方法が必要だったのではないだろうか。

 

   (2)最後の母と娘の物語としての「黄色い髪」

 

 先日、東京の友人から6月末に逮捕された「酒鬼薔薇聖斗」の顔写真が載っているフォーカスのコピーを送ってもらった。顔写真のコピーされたページには少年の家族についての記事が途中まで入っている。

 

 少年は両親と弟二人の5人家族で、父親は地元に本社のある上場企業のサラリーマン。母親は専業主婦で、現在の家に移ってきたのは一〇年ほど前だという。少年は学校で卓球部に所属している。

 「休日には家族全員で卓球をやったり、庭の手入れをしたり、仲のいい一家でしたよ。坊っちゃんも普通の少年でした。お父さんは大人しい方ですが、お母さんは」で次ページになっている。

 

 文章は、「明るくて活発」か「外交的で、華やか」と続きそうで、特別変わった母親ではなさそうである。一四歳の少年が「酒鬼薔薇聖斗」であったことにほんとうに驚ろかされたけれども、少年の家族が普通の「仲のいい一家」であったことになにかいいようのない異様な印象をうけた。

 「黄色い髪」が書かれて一〇年がたったということを、この事件は示しているのだと思った。「黄色い髪」の弟と母親の三人家族の“夏実”から「酒鬼薔薇聖斗」とその家族までの距離を、一〇年という歳月の間に家族は解体の劇を演じながら、たどりついたのである。

 一〇年前“夏実”を主人公にした家族小説は成り立ったかもしれないが、一〇年後の現在の「酒鬼薔薇聖斗」を主人公にした家族小説はもはや成り立ちえない。

 私たちの〈家族〉は、一九七〇年以降〈国家〉という理念的な共同性が不可避的に〈空虚〉や〈喪失〉に到達し、相対化されはじめたことによって、社会から閉じるように守られ持続する必然が消失し、家族の成員は社会に開かれた諸個人として家族の外でもあるがままの〈具体性〉や〈個別性〉を発現できるようになった。それはまた、これまで家族という共同性のなかで安心して〈こども性〉を育んできた子供たちが、家族が社会に開かれていくように自己解体したことによって、現実社会に直接さらされることを強いられ、社会化を促され、社会構成のドラスチックな再編に直面しつづけてきたということである。

「黄色い髪」は最後に描かれた母と娘の物語だったかもしれない。

 〈ええ、そうです。親にとっては、登校拒否でも非行でも死なれるよりましです〉と答えたい気持ちが動いた。そう言うかわりに、「夏実の気持ちが落ち着くまで休ませて、本人が行く気になるのを待ってみます」と教頭先生に言ったのだった。

 史子は水音に耳を澄ました。このごろ夏実は三時間も四時間も風呂に入っている。洗面台のところで髪を脱色しているせいばかりではなく、ずいぶん長時間、湯船にひたっているようだ。風呂に入っていると、羊水に浮いているように安らぐのだろうか。夏実はだんだん幼児がえりしているのではないだろうか。さっき見た夢のまんまるい顔は、六歳くらいの時の顔だった。

 教頭先生にああ言った時には、それが子の命を守るために親のするべきことだと思った。夏実がどうしても学校へ行きたくないのなら、無理に学校へ行けと言うことは、あの子を追いつめて家からさえもはじき出してしまうことになるから、と。夏実は初めての外泊から帰ってきた朝、憎しみをこめた眼で私を睨んだけれど、それでも家へ帰ってきた。家へ帰ってこざるを得なかった。人はいろいろな割り切れないことを抱えている。それをそのまま受け入れてやれるのは、家庭しかないと思ったのだった。

干刈あがた「黄色い髪」p218

 

 神戸の「酒鬼薔薇聖斗」は、このような母と子の物語のワクをはるかに越えたところにいる。

 たぶん干刈あがたの世代の子供たち(一九七〇年代)ぐらいから、子供たちはもう家族のなかで育っていないのではないかと思う。最初からもう少し広い世界のなかで、広い世界を視野に入れながら育っている。私たちが、父親であることの自信なさやたよりなさ、母親であることとひとりの女であることの振幅の大きさや落差に戸惑っていた時、同じように、子供たちも自らの〈こども性〉の解体に直面していたのだと思われる。〈こども性〉を解体させ社会に直接さらされるようになった子供たちは、大人たちが日々感じているのと同じ疲労感や消耗感、焦燥感や圧迫感を強いられている。それは、大人であることと子供であることの境界が不確かなものになってしまったことを意味している。「酒鬼薔薇聖斗」の事件は、そのことを私たちに如実に示しているのではないだろうか。「少年法」の改正を口走る大人たちの狼狽振りに比べ、解体した家族のなかでこどもであることの理不尽さに耐え、“夏実”から「酒鬼薔薇聖斗」へまでいきついてしまった時代の振幅の大きさを肌に感じながら、日々新しいこども像を模索しながら生きている子供たちは、私たち大人の悪戦振りに比べ、はるかに見事に戦っているといえる。

 私たちは子供たちが新しいこども像を創出するのを見守ることしかできないのではないだろうか。それは無力なのではなく、私たちはだれもが平等に自分自身のモチーフにしたがって自分自身のコンテキストを生きることしかできないだけなのである。

 干刈あがたと同じ風景を視て、同じ時代を経てきた、私はいちばん下の世代である。

 

 おまえは三歳まで立って歩けない子だったと母親から聞いたことがある。終戦後のことで栄養が偏っていたのか、小学校に入ったころは、体中に腫れ物ができていた。「うつる、うつる」と近所の子が言うと、母はその子たちを叱らず、ただ悲しい顔をした。

 そして二年生になった時、私はしばらく休学して家で寝ていた。母は朝暗いうちに起きて炊事や洗濯をし、父親を送りに出すと、私の枕元に昼食の盆を置き「ごめんね」と言って、煮しめたような割烹着から白い割烹着に着替えた。薬を買ったり、栄養のあるものを私に食べさせるために、昼間は近所のお大尽の家に女中に行くのだった。そして帰ってくると風呂を焚き、夜は電灯の下で和裁をした。医師や先生が来る日には、家じゅうを雑巾がけしていた。

 母はいつも安心感とつながっていた。医師や、先生を信頼し、自分のやるべきことが何かを知っていた。生きたい魂をこめた私の肉体をよみがえらせようとする母は、周囲の自然や世間と調和し、まっすぐで美しかった。

 けれど今、夏実の肉体の中で死んでいくように思える魂を、よみがえらせたい自分はどうだろう。学校を疑い、先生を疑い、自分を疑い、今の世の中を疑い、親とは何かを考え、何をしたらよいかもわからずにいる。自分はねじれ、美しくもない。

 今までは、何かを疑ったりすることもなく、子供と一体感を持ち無意識に子供と暮らすことが、自分の自然だった。けれど、それはもう失われたのだ。自分はあたらしい自分の自然を受け入れねばならない。

 史子はしばらく涙を流し続けた。それから涙をぬぐった。

「黄色い髪」p266~267

 

 “史子”が思い出している母親の姿は、今年の春亡くなった私の母の姿とも重なっている。そして“史子”と同じように父親である自分の姿を思い、深いため息をついている。

 女性である“史子”や干刈あがたには受け入れるべき「あたらしい自分の自然」が視えるのかもしれない。何も視えない男の私は、二十才の頃から追いつづけてきたモチーフ=国家-家族論だけをたよりに、干刈あがたの作品に導かれながら、家族や自分の父親としての姿を考えてきた。

 作家としての干刈あがたは、家族小説ばかりでなく、“物は物にして物にあらず物語”シリーズの『十一歳の自転車』や『借りたハンカチ』としてまとめられたものなど、さまざまな可能性と力量をもった作家だったと思う。やっとこれから作家としての代表作が書けそうに思えたとき亡くなってしまった。

 作家としての干刈あがたについてふれる力量があれば、もっと違う作品についても言及できたかもしれない。できるものならいつかしてみたいと思っている。(了)

一九九七年八月十日