(四)「Love」を発見した日本の家族および干刈あがたにとって“兄”とはなにか

 

 

   (1)アジア的な家族の解体とLoveの発見

 

 干刈あがたはいくつもの作品のなかで、離婚を決意した主人公が離婚までに到る内的な理由として「私は男の人を深く愛せない人間なのではないか」とくりかえし述懐させている。

 

 私も君たち(二人の息子)の前では明るくしているが、時々ひどく落ち込む時がある。私は男の人を深く愛せない人間なのではないか。ひどく冷たい女なのではないかと。離婚したあとで、自分ばかりを責める時期があるわよ、と離婚先輩に教えられた、そういう後遺症の出てくる時期なのだろうか。

 このごろ離婚を知った友人からの電話が、よくかかってくる。先ずストレートに「よかったわね。頑張ってね」と言うのは離婚経験者だった。「子供二人いて決心するまでには、どんな思いをしたかよくわかる。だから踏切ったのなら、一つの突破をしたわけだから、よかったね」と。

 電話をかけてくれるような人は、親しい人だから遠慮のない口をきき合う。私の割り切り方を、冷たいねえ、という人は多い。このごろ、そういう言われ方に気持が傾いて、そうかもしれない、と考え込むことが多い。

 このあいだ、一つ年上の従姉から電話があった。君たちは知らないが、私の子供の頃をよく知る人だ。

「あんた何やってるの、親子二代で」

 といきなり叱られた。

「何のこと」

「どうして一言も言ってくれなかったの」

「あのこと。人に相談してもしようがない。それにもう忘れたよ。今を生きるのが精いっぱいで。今のほうがずっといい」

「いい気なこと言って。今にツケが回ってくるわよ」

「ずいぶん憎々しげに言うのね。離婚してシアワセになちゃいけないみたい」

「そうよ。みんな我慢してやっているんだもの」

「親子二代と言ったけど、だから、私はそうなるまいとしたわ」

「そうでしょうね、あんたが離婚するってのは。だからその時、どうして私に泣き言の一つも言ってくれなかったのかと思うのよ。私はあんたがかわいそうで、口惜(くや)しくて。私が怒っているのは、あんたにじゃなくてカミサマによ。あんたのお母さんがジリジリとお父さんに苛められていた時、他の兄妹は出て行っても、あんたは部屋の隅でじっとしていて、お母さんが首筋に庖丁を突き立てる瞬間に、とび出して行って止める役をしていたじゃない。そしてあとで庭に出て泣いていた。もうこんな役するのイヤだ、いっそ血を見て終わればいいって。あの時私は聞いてあげることだけしか出来なかったけど、今度は話してもくれないんだもの」

「私はね、仲のわるい夫婦の子供がどんなに辛いかよく知っているから、ますます悪くなる状態を続けるより、別れた方がいいと思ったの」

「あんたの兄貴から聞いたんだけど、あんたは、亭主に合わせられなかった自分がいけなかったんだって、手続きやすべてを一人で済ませてから、はじめて言ったんだって。何てこと。親兄弟や友達もいるのに。兄貴も、あいつがかわいそうでって言ってた」

「私には親兄弟よりも、子供と元亭主の方が大切だったの。これからやっていく生活のことを考えたら、周りをまき込んでゴトゴタしたくなかったの」

「あんた人がよすぎるのよ。なんで浮気した亭主が悪いってハッキリ言わないの」

「言えないわ。私より合う人がいるんだったら、その方がいいと思ったもの」

「バカだねえ、気取ってる場合じゃないわよ。髪ふり乱して胸ぐら取ってやり合ったり、泣いてすがらなくちゃならない時だってあるのよ」

「うん」

「あんた、もうそれほど醒めてたんだ。その冷たさが亭主にもわかったんだ」

「そうね。最後の一年はひどかった。何を言われてもしようがない」

「ああああ、どうしてそんなになっちゃったの。あんたは泣いたりしないからいけないんだ」

「泣いた時もあるわよ。もうずっと前。今度は泣かなかった」

「そうだったの。あんた一度も言わないんだもの。初めての時って女は辛いよね」

「子供も小さいしね」

「そう。私なんか子供が寝ている間に走って買物して、自分の物なんか何一つ買わずにいたのに」

「つつましく暮らしているところに、いきなり香水の匂い。あれはショックね」

「知ってるね、あんたも。私はネンネのあんたが、初めてのショックで逆上したのかと思った。私なんかもうグレちゃって、毎日買物とママさんソフトで、うっぷん晴らしてるわよ」

「テニスじゃなくソフトというのがいいわね。私、買物もママさん集合も嫌いだから」

「あんた、真面目なんだ。八木重吉の読みすぎかな。一つの木に、一つの影・・・・」

「木は静かな焔・・・・」

「涙がでちゃう。女は誰だって、そう思っているのにね。でもこのごろは、そんなの遅れてるわよ。私の周りには、亭主に内緒で浮気してる人、多いわよ。知ってるだけでも四人」

「うん。私も二人知ってる」

「嫌だから別れますって女房と、どっちがいいんだろう」

「ママさんソフトあたりが一番いい女房なんじゃない。四人の中に入っているのか知らないけれど」

「してみたいと思うわよ。亭主のシラッとした顔見てると」

「ハハハ、すれば」

「あああ、心配してあげてバカみた。毎日泣いているのかと思った」

「泣いています」

「あんたみたいな泣き方は、人にはわかんないの。もっと俗っぽく泣かなきゃ」

「もっと早く聞けばよかった」

「へん、聞きもしないくせに。まあ元気ならいいわ」

「見捨てないでよ。今度何か、離婚しなければよかったとか、泣きたくなったら、電話かけてグチグチ言うから。どうせシアワセな人が薬味にするんだろうけど」

「よく言うわ。うちの息子なんか、二親揃ってても頭痛の種よ・・・・」

と、そんな電話だった。二人で怒ったり、泣いたり、笑ったりしながらね。

 今さら、育った家がどうの、両親がどうのと、弁解するように言うのも、青くさくて恥ずかしいけれど、いつか君たちに言った、空とぶ自転車を見たことがあるような気がするということは、そんな子供だった私が、家や肉親の重さに打ちひしがれて空を見上げていた時の記憶なのかもしれない。こうなった原因は、夫に甘えたり親しんでいくところの薄かった、家族とか家庭とかいうものにどこか臆病で、疑り深い暗い眼をもっていた私の方だという気がしてならない。

「ウホッホ探検隊」p55~60福武文庫 一九八五年

 

 干刈あがたは一九四三年生まれであり、敗戦後の風景のなかで幼年期を、戦後の復興期に少女期を、高度成長といわれる日本経済の六〇年代の激動期に青年期を過ごし、結婚している。

 干刈あがた自身の内奥から独白のようにつぶやかれる「私は男の人を深く愛せない人間なのではないか」という自問は、日本の家族史上はじめて、この世代の主婦たちによって発見された自問だったと考えられる。

 それ以前の家庭の主婦や家の母たちは、子を産み、育て、働き、家事に追われ、そのような自問が芽生えるより先にまず家族という共同性を支えるために時代の背負いきれない負荷を黙ってひきうけてきたのではないだろうか。

 一世代上の一九三〇年生まれで、六〇年代の一〇年間をアメリカで暮らした大庭みな子は、この同じ自問について次のように作中人物に答えさせている。

 

「お母さん、あの人に日本語を教えていたの」

「まあね、――いろんな人に日本語を教えていたから」

 百合枝は日本語を外国人に教えていた頃のことを、脈絡もなしに思い出した。

「I love you.という日本語をまず第一に覚えたがる人がいたわ。でも、そういう日本語ってないのね」

「ないみたいね」

「きっと、日本人はそういうことは不可能だと思っているのね。たかだか、わたしとあなたなどという二人の間に限定してふりかざせるようなものはないと思っているのかしら。傲慢と謙虚さが同居しているようなためらいがあるみたい。連なりあっているもののことが、いつも頭の中にあるのよ」

 言いながら、百合枝は今日こうして母娘が街へ買物に出かけるのも、自分が自分の娘とこうしているというよりは、世界の中である情況がこういうことになった、と自分は思っているらしい、誰か他人に会えば、きっと一人称を省いて、買物に行くんですよ、とぶっきら棒に言うに違いないと思った。

「I love you.というのは自分を縛って下さい、ということかしら」

 百合枝は呟き、千枝(娘)は驚いたように、黙っていた。

 自明のことは恐ろしくて口に出せないのかもしれないし、反対にそういうことはあり得ないので言いたくないのだろうか。

大庭みな子「啼く鳥の」講談社一九八五年

 

 私たちが「I love you」という英語に相当する日本語がないことに気づく以前は、夫婦の破綻に出会ったとき、子どもたちのためだけででも取り繕うことが父として母としての責任であると、そのように考えてきた。たぶん、干刈あがたより上の世代の主婦たちは=六〇年代の高度経済成長以前の家庭の主婦たちは、夫婦の危機をそのようにして乗り越え、また過ぎ去ってみれば小さな波紋や転期にすぎなかったりしたのかもしれない。しかし、干刈あがた以後の世代は、アジア的な母系的な家族のワク組みが解体され、家族のなかの夫と妻は不確かな「IとYou」として突然の「Love」の出現に戸惑い、対峙させられることになる。そして「Love」の破綻は夫婦の本質的な危機として認識されはじめる。

 干刈あがたが「私は男の人を深く愛せない人間なのではないか」と自問していることは、干刈あがたを第一世代として家族の共同性の質的な変容があったと考えられる。

 私は六〇年代までの戦後家族の解体と七〇年以後の家族の自己解体は、現代家族論を考えるときに、明瞭に区別しなければならないと思っている。前者はアジア的な「ムラ」や「イエ」が解体され、都市部への急激な人口移動と核家族化が促進された時期である。つまりアジア的な後進性が「イエ」の外でも内でも徹底的に払拭された時期である。後者は日本の経済社会が貧困から離脱したことによって、家族の成員が家族の外でもただあるがままに振る舞うことができるようになり、アジア的な強固に閉じられてきた家族がはじめて社会に開かれていった過程としてとらえられる。そのような家族のすがたの質的な変位は、家族のすがた(水準)を本質的に規定している〈国家〉という共同の幻想性が七〇年を境にして無化されはじめたことに起因している。(干刈あがた論一参照)

 七〇年以後私たちの家族ははじめて「Love」を発見した。しかし〈国家〉という理念的な共同性の相対化(無化)に直面し歯止めのなくなった欧米先進社会では、「Love」がsexのワクを越えて拡張されてしまった。性的な退廃なのか解放なのか、戸惑いなのか暴走なのか、どこまで拡張されどこへ収束されるのか混沌としているというのが現況のように思う。日本もそのなかに含まれつつあるのかもしれない。

 (干刈あがたの世代が「Love」と直面して戸惑ったのをちょうど裏返したのが、若い世代の夫婦のセックスレス現象ではないかと思う。セックスレス現象は、アジア的な家族の基盤が解体されて根無し草になったアジア的な夫婦が、はじめから「Love」と向い合うことを避けた淡白に萎縮したすがたであるといえるのではないだろうか。)

 

   (2)「裸」─干刈あがたが渾身の力をこめて描いた「Love」

 

 干刈あがたが「Love」を発見したことによって戸惑い、翻弄されながら、自分自身を裸身にして、これまで長い間暗く閉じ込めてきた感受性の在りかに光をあてたのが「裸」(『海燕』一九八五年四月)ではないかと思う。

 「私は男の人を深く愛せない人間ではないのか」というフレーズは「裸」では、「夫に、いえ、テルの父親A氏に悪いことをしたと思っている。その時はそう思わなかったけれど、何かを諦めて結婚したような気がするの」というように変形されて、述懐されている。「裸」は“何かを諦めて結婚したこと”に思い至った干刈あがたが、諦めたものが何だったのか必死になって思い出すために、あるいは閉じ込めたままにしてきたものに息を吹き込むために、干刈あがたの文体と方法ー文学的な実体験としてより正確により赤裸々に結晶化させて提出することによって自分自身を鎮魂したり救抜することができるーで自分自身をひとつひとつ確認するように書かれている。

 独白がさしこまれたモザイク模様の構成の仕方や緊迫度は、デビュー作の「樹下の家族」に似ている。

 「裸」は、息子のテルが元夫のA氏と再婚した妻の三人でインド旅行に出かけて、留守をすることになった十三日間に、私が書いた独白まじりの“日記のようなもの”をベースにして、たて糸には現在の恋人である“乾と私”、友人(トリコ)の夫の“巽と私”の二本、よこ糸には“トリコ”“道子”“由加”“谷サン”など女友達たちのそれぞれの男(夫や恋人)たちに対する関係のあり様である。息子たちの旅行スケジュールが舞台廻しの役をし、作品を展開させる原動力となっているのは、作者自身の性的感受性をどこまで赤裸々にあらわにできるかという切実さのようなものである。 

 

 今日、彼らはカトマンズ。

 

 このホテルは船のよう。

 初めてここの二十三階の窓から街を見下ろした時、そう思った。街の灯が散りばめられた地上の部分と、真っ暗な夜空の境界線が、丸い水平線の一部分のように弧を描いている。

 でもここの窓から見える海と空は、逆さになっている。夜の海を航海していた時は、海が真っ暗で、空は満天の星だったのに。このホテルは、星の海を航海して虚空にむかう船のよう。

 ホテルはいい。匂いのないところがいい。

 台所もない。生活がないところがいい。

 

 窓ガラスに、室内のベッドで眠っている一人の男が映っている。

 多くの男の間を自由航海しようと思っていた。もう男にとらわれたくない。とらえることもしたくない。だが彼とは半年あまりも続いている。男の姿と重なっている星の海の灯の一つが、彼の待つ妻の灯であるかもしれない。一人の女が男を奪い、はぐれた妻がまた別の男を奪って、加速度をつけていく。

 

「テル君は元気で行ったの」

 シーツから裸の腕を出した彼が、窓ガラスで私の視線をとらえている。まだ睡気の醒めきっていない声。私は身をひるがえし、もう若くはない体と、手術の痕で引きつれた腹部を見られないように、シーツの中にもぐり込む。男たちは必ず、ケロイドになった傷痕を指でたどるが、自分からは問わない。私はその意味を、ある男にはおしえ、ある男には黙っている。私はこの人にはおしえた。最初の日に。一緒に果てる(イク)寸前に。共に果てるのは初めてのことだったから。

「裸」冒頭第二連 p123福武文庫

 

 作品はこのようにはじまり、展開されていく。そして、モザイクのようにつながれたそれぞれの話のなかで“私”は、自分自身の性にたいする感じ方を正確に言葉で表そうと試みている。

 

 ああ、あなたも数式を解こうとしている。正解かどうかはわからないけれど、いいリズム。でも乳首はシンセサイザーではありませんから。

p125

 

 あなたの手に触れられると、そこから嬉しさが体じゅうにひろがっていくような気がする。からめた脚に感じる膚ざわりも、なめらかで気持ちいい。

p126

 

 体を動かすと、性器の奥にまだまだ残っている感覚が揺れてひろがるようで、じっとしている。彼に会ったあとはいつも、この余韻が消えるまでに二日かかる。三日四日目が会いたくなって苦しい。五日過ぎるともう、なんでもなくなる。乾に会っても、話をして、あっさりサヨナラと帰ってこられるような気がする。

 昨日、(・・・・)の部分がよく書けなかった。独りで生きる自分を確かめるために、そしてトリコからの電話を聞く時の恐怖心の正体を確かめるために、日記のようなものを書いてみようとしているが、私は男と女のことや性について書こうとするとき、エンピツが止まってしまうことに気がついた。恥ずかしさや、ためらい、など気持ちの問題が一つある。そしてもう一つは言葉だ。正確に表そうとすると、自分がほとんど言葉を知らなかったり、異和感のある言葉ばかりだったりする。

 性器・・・・膣、ヴァギナ・・・・私は本当に、性についての言葉をよく知らない。乾と一緒にいる時、彼のことを、この人、横にいる人、あなた、などと感じるように、自分の性器や性感覚は、これ、とか、あれ、とかあの感じ、としか言えない。そうとしか思わなかったから。

p139

                        

 A氏の皮膚の冷たさが、乾の皮膚のあたたかさを知ってからわかった。男の皮膚の感触がそれぞれ違うことも、離婚してから知った。

 乾はなめらかで明るい感じ。静かなる男は湿って吸引力があって暗い感じ。

 A氏の皮膚が冷たいのではなく、A氏と私との関係が冷たかった、ということなのだろうか。

 

 現在、乾を好きである私は、それを意識するのを拒否しようとしているけれど、全体としての自分は知っている。乾の膚ざわりは巽のと似ていることを。巽の膚ざわりを記憶していない。覚えるほど馴れていない。でも、伝わってくるものが似ていると思う。好きな人と膚を合わせた時は、あたたかいと感じるのだろうか。

p141~143

 

 このような“私”の性についてのこだわりと次のような倫理的なこだわりは一対である。そして、どちらも「Love」の周囲をどうどう巡りしているだけで、これらをいくら積み上げても「Love」には行き着かないように思う。

 

 酒場で会った男と、長く関係を続けるような女に私はなっている。

 不意に出会っただけだ。だから彼は私に何の責任も持つ必要はない。

p190

 

 トリコの声は、一言も私を責めはしなかったのに、自分の中に自分を責める声があった。

 

 その声が、乾の妻の声と重なっている。

 

 そうです。私は浮気をした妻です。そして今また、他人の夫を奪っている女です。

 

 だが私はやはり、また乾と会うために出かけて行くだろう。私にとっての、乾と自分との関係を続けるために。彼にその気持ちがあるうちは。

「裸」結び p243

 

 「Love」にたどり着くには、どこでどんな出会い方をしようが、ただ自分自身がなにを欲しているかだけをみつめて“浮気をした妻”であらうが“他人の夫”であろうが、だだの“わたし”とただの“あなた”が全世界と拮抗する「IとYou」となって愛し合えばいいのではないだろうか。

 “停滞性”がその特質であるアジアの歴史と文化は、各時代の時間的な堆積物が幾重もの層となって保存されている。それと同じように「I」の現在のなかには西欧のたどってきた全歴史と文化の必然の軌跡が理念的な構築物のすがたで内包されている。

 私たちがいま直面している「I」は、アジアでもヨーロッパでもない得体のしれない「I」かもしれないが、それでも私たちは「I love you」の日本語をみつけなければ、“わたし”と“あなた”がもはや出会い、夫婦となり“家族”を続けることができなくなっている。

 干刈あがたは「裸」という作品のタイトルについて、作中で次のように書いている。

 

 子を産んだあと、あんなに豊かに張っていた乳房が、今はもう弾力を失い、小さくなり、少し垂れている。三年の間にすっかり痩せてしまった。腰の線は崩れている。そして腹部には引きつれ。タオルで腹部を隠せば、少しはうつくしいかもしれない。

 これが私の裸身。この裸身一つの中にある力と方向感覚だけで、生きていこうとしている。

p132

 

 干刈あがたの「裸身」は「Love」にたどり着くには「古風」過ぎたのではないだろうか。アジア的な劣勢遺伝子を濃厚に受け継ぎ過ぎている。というより干刈あがたという「古風」な裸身が現在的な先鋭化された感受性をもったことによって、干刈文学が成立していると考えたほうがいいかもしれない。

 

   (3)干刈あがたの感受性がとらえた「Love」

 

 「裸」という作品の二本のたて糸である“乾と私”“巽と私”だけを追っていくと、晩生(おくて)でバランスの悪い“私”の離婚前後の恋愛事情が告白的に(もちろんフィクションとして)書かれている。しかし無器用で生真面目な告白小説でもポルノ小説でもない作品の緊迫した切実さを、私は読んでいて少し気恥ずかしい思いをしながら、最初どのように受けとったらいいのか分からなかった。“乾と私”という作品のたて糸の帰結部分を読みながら、『ふりむんコレクション・島唄』のなかの「私は遅れてきた祝女(ノロ)なのではないだろうか。(沖祝女)」という一節を思い出した。遅れてきた祝女(ノロ)=アジア的母性が社会に開かれていった時の初々しい戸惑いとここから何かが始まるんだという確信のようなものが、“私”の切実さの根拠になっているのではないかと思った。

 

私は(息子の留守のあいだの十三日間を)独りで居ようと決めてから、自分の気持ちを書き続けてきた。眼を閉じて、その時自分がどんなことを感じていたかを思い出しながら。眼を開けて、周りを見ながら。脳味噌に力を集中して考えながら。過去の出来事や気持ちを思い出しながら。日記のように昨日のことを記しながら。

 私はそのたびに、自分には男と女の間のことや、性感覚を語るのは不可能だと感じた。性に関する言葉の一つ一つを確認しなければならなかった。女の性に関してこうだと言われていることを、もう一度考えなおさなければならなかった。恥ずかしさのために、エンピツの動きが止まり、あいまいなことしか書けなかったり、無理な言葉を使ったりした。必要がないかもしれないことを書いている時は、エンピツがどんどん進んだ。

 それらすべてが必要だったのかもしれない。数日前から私は、自分に隠しておきたいと思っていたことも認められるようになった。見えなかったものが少し見えてきたりした。見えないものに無理に言葉を与えることをしないで、表すことができることに、なるべく自分の気持ちに合った言葉を与えようとするようになってきた。

 高層ホテルで乾に会った時のところを読み返してみると、あいまいに簡単にしか書いていない。

 異和感のある言葉を使ったり、恥じらいの気持ちを押して書いてしまったり、あるいは男の人が書く方法で書いてしまうことよりも、とりあえずそうすることを選んだのだ。あの時より幾らか、自分の気持ちに合った言葉をつかめるようになってきたような気がするが。

 

 私たちは唇を合わせながらフトンの上に倒れ込んだ。私はフトンを敷いておくことにも恥ずかしさやためらいがあったが、自分の部屋に好きな男の人を呼ぶということはそういうことだ、もう気取るのはやめようと、眼をつむって高いところから跳びおりるような気持ちでそうしたのだった。

 私の上に彼が体重をのせてきた。彼が私の上にいることが嬉しくて、彼の胴から背中に腕をまわして彼を抱きしめた。いっしょうけんめい力を入れて締めつけたが、私の思いを伝えるほどに強くないような気がした。体でできることよりも、気持ちの方がずっとずっと強い。

 彼の体の重さも、胴の太さも、弾力も、私にはこころよい。これ以上私に合った重さも太さも、弾力も、ないような気がする。あなたは私の顔いっぱいに乱れ散った髪をかき分け、額や頬に唇を押し当てた。私の唇の上をあなたの唇が通り過ぎる時、私は鬼ごっこでつかまえるようにあなたの唇をつかまえた。それから放してあげた。放された唇は、顎や首筋におりていった。彼がブラウスのボタンに手をかけ、もどかしそうにはずした。私も彼のシャツのボタンを片手ではずしながら、自分の唇で彼の唇を追いかけつかまえる。まだ少ししか開かれていない胸元にあなたが唇を這わせる。ブラウスの下から入れた手で乳房をつかむ。手のあたたかさが乳房に伝わってくる。

 私の股間に、あなたの股間の固いものが動く。私はそれを感じるのが大好きだ。

 

 上半身を起こして跪き、膝を交互に組んで向き合い、ボタンのはずしっこをする時、私はいつも自分がとても幼い子供のような気持ちになる。ブラウスとシャツを脱がせおわると、私は自分で服をすべて一気に脱ぐのが好きだ。野原の空高くぽーんと服を放り投げて裸になるような気がする。

 それから二人でダイビングして裸で抱き合う。この瞬間が一番好きだ。裸のあなたを強く抱きしめる。胸に胸が、股間に股間が、脚に脚を感じて、ああ嬉しいなあと思う。ああいいなあと思う。うまくいえない。

 私は眼を閉じて、彼の肩や背中や尻をなでまわす。野原の広さを確かめるように。あなたの膚はとてもなめらかで陽性だから、私は太陽の下の野原で遊んでいるような明るい気持ちになる。あなたは私の手を引いていろんなところへ連れていってくれる男の子のようだ。私は首を傾げて、なあに、と問う女の子のよう。私はあなたに導かれて、いろんな遊びをする。

 私たちはいっぱいいっぱい遊んだ。いっしょうけんめい遊んだ。

 

 やがて私は不意に、自分が少し生長していることに気づく。私たちはもう遊んではいられない。一緒に何かをしなければならない少年少女だ。同じ年頃の少年よりませた少女のように、今度は私の方が導く番だ。私は仕草であなたを促す。

 私は眼を閉じ静かに仰向けに身を横たえ、少年を呼ぶ。さあ。少年は大人になる儀式のように私の脚の間に跪き、それから身を重ねてくる。そして自分のものを私の中に入れる。ああ、といつも思う。私はいつもそれだけで、自分が充たされ、体じゅうに嬉しさがひろがるのを感じる。私たちは一緒に舟を漕ぐ少年と少女のように、向い合ってゆっくり櫓を動かし始める。そうじゃないわ、そっちじゃないわ、と少女の仕草でおしえる。こうかい、と少年はやってみる。そう、それでいい。舟はゆっくり進んでいく。やがて舟の舳先に海原が見えてくる。私はこちらをむいて懸命に櫓を漕いでいるあなたに、海原が見えてきたことをおしえてあげたい。そして励ましてあげたい。でも言葉に出して言うのは恥ずかしい。だから私は海のうねりと同じ呼吸をする。彼はますます懸命に激しく櫓を漕ぐ。ああ、高潮がやってくるわよ。準備はいい。ああ、大波に乗った。舟はどんどん波をかけのぼっていく。ああ、波頭に達した。舟もろとも波頭は砕け散り、少年も少女も白い泡とともに急速に落下した。

p212~216

 

 “乾と私”の物語は、いつの間にか少年と少女にすり変わっている。これは、作者のテレなのか、限界なのか、誤解なのか、作品も読んでいる私もうまくはぐらかされたような気がした。作品の切実なモチーフからいえば、男と女の物語としてどこまでも書くべきではなかったかと思う。「Love」の入口まで来て、その周囲をどうどう巡りをしているようなはぐらかされ方だといってもいいかもしれない。

 私はこの箇所を読みながら恋人同士であるはずの少年と少女がいつのまにか、沖祝女(うきぬる)の兄弟とその姉妹の物語に重なってしまった。なんど読んでも少年と少女がいつのまにか兄と妹(あるいは姉と弟)になってしまう。私の思い込みなのだろうか。

 「裸」の二本のたて糸は、“巽と私”が男と女の出会いを、“乾と私”が男と女が心と体で愛し合うことへの目覚めを分担している。“巽と私”の出会いの次のような切なさも、“乾と私”の少年と少女へのすり替えも、干刈あがたを根深いところで規定している感受性のワク組みからきているように思う。

 

 夜桜の下を歩き、小さな店で飲むのも初めてだった。

「本当に飲んだことないんですか」

「私が若いころは、女が飲む習慣はなかったから」

 話せば話すほど哀しくなるような、自分がもう若くはないことを確かめるような話ばかりになった。その店で隣り合わせた二人連れの男客は、私と同年齢だったが、彼らの風貌はすでに中年だった。

 その店を出ると巽は急に私の手を取り、引っぱって走りながら、呻くように言った。

「嘘つきはやめろよ。あんな詞を書くくせに」

 幾つかの角を曲がって街を走った。ネオンや店先の灯りがぐるぐると回っているようだった。道傍に立っていた街の女が、びっくりして見ていた。暗い一画も走り抜けた。ある門までくると、巽は立ち止まって手を離し、私を振り返った。私は門の上に点っている灯りを見上げた。知っていて入るのだ、と自分に確かめた。

 暗闇の中で互いにまさぐり合い、互いを締めつけ合っているうちに、巽の腕の力が弱くなり、軽い寝息が聞こえてきた。

 

 覚えているのはそれだけだ。どんなふうにして入り、どんなふうに出たのか。どんなふうにして家に帰ったのか、まったく思い出せない。

 それから私はコンサートに行かなくなった。トリコに会いたくなかったから。巽からはたまに、夜一時頃、遠い地方から電話がかかってきた。「詞を書いてください」ということもあったが、私はそのたびに郵便で送った。

 

 その一度のあたたかさだけで、一生、生きていけると思った。

 

 私は出かける時、そんなことになるとはまったく思っていなかった。本当にお前にその気持ちはなかったのか、と問い返しても、ない、と言える。手を取られて走っている間も、最初はなんだかわからなかったのだ。たった二分か三分で、人の気持ちや人生が変わることがあるのを、私は知らなかった。

 

 男と女の出会いが、そんなものであることも。

p198~199

 

 ここで描かれていることは、「Love」の所在がどこにあり、どんな輪郭をしているのか、ということであり、後は男と女がどんなふうに愛し合えばいいのかということだけである。しかし、干刈あがたの先鋭化された感受性が「Love」の所在を確実に射程にとれえている時も、古風な干刈あがたの感性が求めていたのは、世界のなかのIとYOUの「Love」の物語ではなく、次のような説話的(アジア的)な男と女の世界だったと思われる。そのような振幅のなかで自分を裸身にして、ひとりの女としてなにを求めているのか確認しているのが「裸」という作品だったのではないだろうか。

 

 仲のよい老夫婦を見ると、いつも思い出すものがある。すべてひらがなで書かれた手紙の一節。不二子さんが「明治うまれでもこんな夫婦がいたのよ」と言って、母親からの手紙をわたしに見せてくれたのだ。

 わたしはとてもしあわせなつまでした おとうさんはまいにちかいしやがをはるとまつすぐいへにかへるのでかいしやのひとたちからはあなどられてゐましたがおとうさんもわたしもそのほうがよかつたのです わたしはおとうさんがかへるころあひをみはからつておゆうはんをこしらへます おとうさんもかへつてきてまきをわつたりおゆをわかしてくれます ゆつくりじかんをかけておゆうはんをいただきそれからわたしがかたづけてゐるあひだにおとうさんがおふとんをのべます おとうさんはまいにちわたしをよろこばせてくれました わたしがよろこぶのがすきでいろいろなくふうもいたしました わたしもおとうさんがよろこぶのがすきでいろいろなことをしました 五十になつても六十になつてもおとうさんとわたしはさうでした おとうさんがやみついてからもわたしはよばれるとおとうさんのおふとんのなかにはひりました ですからわたしはおとうさんのところへいくのはすこしもこはくありません ひとりでいきのこるはうがさびしいのです

干刈あがた「窓の下の天の川」『新潮社』一九八九年

 

 「Love」を発見したことと“私”が「Love」にたどり着くことの間には、なお越えなければならないいくつかのハードルがあった。そのいくつかは“私”にも察知されていたかもしれない。干刈あがたは気がついていないかもしれないが、そのなかのひとつのハードルに、私は「兄」への親和があったと思っている。そして、そのことが干刈あがたが「Love」にたどり着くことを一層困難にしていたのではないかとも考えている。

 

   (4)干刈文学にとって“兄”とはなにか

 

 「野菊とバイエル」の“あとがき”のなかで干刈あがたは「私は私の子供時代のまわりにあった花々や山や川を思い出し、とても幸せな気持ちでした」と書いている。干刈あがたの“文体と方法”によって書かれた作品は、血を吐くような思いをして結実させたものばかりであり、気持ちよく書かれている作品の方がむしろ際立っている。そのなかの一つは、まちがいなく(父母の故郷・沖永良部島をはじめて訪れたことを書いた)「入江の宴」であり、もう一つは、いくつもの作品に登場する“兄”について描写している時ではないだろうか。兄に対する自然なこだわりのない親和力が、“乾”や“巽”や“前夫”について描写する時のぎこちなさに比べ、干刈あがたをどうしようもなくなめらかで饒舌にしている。重く吃音者の独白のような干刈文学のなかで、そこだけ流れている時間と空気がどことなく甘味で懐かしい印象を受ける。

 干刈文学を読んでいて私は、“乾”や“巽”や“前夫”とは比べようもなく“兄”への親和力はなにか特別だったような印象をもっている。「Love」の周りをどうどう巡りをしてしまうのは、彼女の親和力が、“兄”に向かう時だけ自然に開かれていったからではないかとも考えている。

 

昇は高校生の頃、新聞配達のアルバイトをしながら、白いスケート靴を買い、新宿や池袋のスケートリンクへ行っていた。夕刊だと遊べないからと、朝四時半に起きて朝刊を配っていた。スケート靴を担いで歩くのは〈不良です〉という看板を担いで歩くようなものだ。ある日、帰ってくると言った。

 今日よ、初めて渋谷へ行ったんだ。道玄坂のパチンコ屋でパチンコしてたら、玉がなくなっちゃたのな。そうしたら隣にいた男が、黙って玉を入れてくれたの。それもすぐなくなっちゃって、金もないし帰ろうと思って隣の男に、玉、すみませんでした、って挨拶したらよ、腹空いてねえかって聞くの。空いているって言ったら、俺も空いているから一緒に喰おうって言って、パチンコ屋を出たの。お前、ギョウザって知ってるか。野菜やメリケン粉の皮で包んだ中華料理なんだけどよ、それを喰わせてくれたの。恋文横町ってゴミゴミした路地のギョウザ屋で、ビールも飲んだよ。その後でよ。男が紙を出したのな。それがよ、組の入会申込書なんだよ。その男、安藤組の者だって言うの。俺、ブルっちゃって、迷ってたらギョウザ代返せって言うし、金ねえし。

 それで、申込書、書いたの。

 しょうがねえだろ。

 本名書いたの。

 学生証見せろって言うんだもの。

 ふうん。呼び出されたりするのかな。

 俺、おっかねえから、もう渋谷へはゼッタイ行かねえんだ。

 もし呼び出されたら、仕方ないから、お父さんの職業を言うといい。

 そうだな。警察官の息子を手下にするヤクザはいないよな。

 スパイ入れるみたいだもの。

 でもよ、安藤組の親分って、俺と同じ名前で安藤昇っていうんだけど、すげえイカシテルんだぜ。大学出のインテリヤクザなんだ。

 その話はそれっきりだった。呼び出されたという話も聞かなかったし、それを黙っている様子もなかったが、もしかしたら脅されていたのだろうか。脅されてなくても、もしヤクザというものが、さっきの薬指の欠けた男のようなら、なかなか魅力的だ。見せかけだけのものだとしても、私や兄は、あんな風な男性的な保護者的な優しさに飢えているところがある。

 昇は時折、住込み先の店から電話をかけてくることがあった。家には電話がないから、隣の家に呼出しがかかる。隣のおばさんが、昇ちゃんから電話よ、と言うたびに母と私はドキンとした。それはたいてい、集金を使い込んでしまったから、千五百円貸してくれとか、仕事でない時にオートバイに乗っていてぶつけてしまったから、修理代を千円貸してくれというような電話だった。

 すると母は慌てふためき、家計の残りをかき集め、足りない時は私の参考書代を足したり、互いにお金を遣り繰りし合っている隣のおばさんに借りたりして、翌日学校へ行く私に持たせた。

 昇の住込んでいる〈纏鮨〉は、高校からバスに乗ると停留所七つか八つで行ける、京王線の明大前にあった。私は店の裏口にまわり、兄を呼出してもらってお金を渡した。兄がいない時は、いつも必ず裏にいる飯炊き係のエツ子に渡した。店の裏の仕込場には、魚の生臭い匂いと、酢の匂いと、ご飯の蒸れる匂いが籠もっていた。

「雲とブラウス」p196~202『樹下の家族』一九八三年所収

 

 この「雲とブラウス」は、住込み先から姿をくらまして「雲みたいによ、軽く生きてみてえよな」という兄を、高三の“私”が「汗が噴き出て、制服のブラウスの下の胸の谷間に流し」ながら同級生の小林君といっしょに立廻り先を訪ね、捜し出すという短編である。

 「雲とブラウス」のなかの兄をはさんだ小林君の描かれ方は、その後の作品に(兄は登場しないが)描かれる“夫や恋人”の描写のされ方と同じであり、干刈あがたの異性の描き方の特徴がとても素直に表現されている。

 この他にも“兄”が出てくる作品は、

「真ん中迷子」 結核性の肋膜炎と腹膜炎で都内の病院に入院している小三の兄と家でひとり留守番する入学前の“私”
「予習時間」 原っぱに畳を敷いた二畳間に昼間だけ家出したつもりでいる高二の兄と一冊80円の文庫本をみかん箱に少しずつ増えるのを楽しみにしている中二の“私”
「月曜日の兄弟たち」 東京郊外に新しくできた団地の中に店を開店させた兄とそれを手伝う大学生の“私”この作品のさまざまな登場人物たちを「月曜日の兄弟たち」と名づけているが、比喩以上の意味はないのかもしれないが、干刈あがたの男たちのとらえ方を深く暗示しているように感じられる。私の好きな作品である。

 

 デビュー後の干刈あがたの文学は、

  「プラネタリウム(八三年二月)」

  「ウォホホ探検隊(八三年九月)」

  「ゆっくり東京女子マラソン(八四年五月)」

  「ビッグ・フットの大きな靴(八四年九月)」

  「ワンルーム(八四年十二月)」

  「裸(八五年四月)」

など離婚後の“私”や自らの家族を題材にした作品と

  「真ん中迷い子(八三年六月)“入学前”」

  「雲とブラウス(八三年六月)“高三”」

  「入江の宴(八四年五月)“二十歳”」

  「姉妹の部屋の鎮魂歌(八四年十月)“次男妊娠期”」

  「予習時間(八五年五月)“中二”」

  「野菊とバイエル(九一年九月)“小三”」

など幼少女期から結婚前後までの身辺を題材にした作品、そしてこの二つをドッキングさせた

  「月曜日の兄弟たち(八四年二月)“大学生”」

  「幾何学街の四日月(八四年八月)“大学生”」に大別される。

 これらの作品は、もちろんフィクションではあるが、いずれも干刈あがたの際立った記憶力による再現描写の部分で成り立っている。

 干刈文学のなかの“兄”がいちばん最初に登場するのは『ふりむんコレクション・島唄』のなかの“暗い唄の旅”であり、文章の流れのなかでなにげなく描かれているだけであるが、妙に印象に残っている。干刈文学のなかの兄妹の構図を象徴しているのかもしれない。

 

 多勢の子供たちは、そんなおとな達を無視して廊下を駆けまわっていた。兄は窓によじのぼって港の方を見ていた。母に似てかわいい顔立ちの妹は、母の膝に乗って次々と母のところへやってくる人々に頭をなでられていた。けれど私は一人で柱の根もとに座り、舞台と人々をじっと見ていた。私はそれらの踊りや唄が好きなのではなかった。むしろ苦痛で嫌でたまらなかった。人々からあきらかに敬遠されているのに、押しつけがましく意見などして廻っている父と、その父を冷たい眼で見ながら、人々がうたう時も決してうたわない母をみているのも、たまらなかった。それでもやはり私はそうして見つづけていた。

「ふりむんコレクション・島唄」“暗い唄の旅”一九八〇年

 

 「窓によじのぼって港の方を見ていた兄」と「それでもやはりそうして見つづけていた私」は、そのまま沖祝女(うきぬる)の

   船の高艫に

   白鳥の居ちゅん

   白鳥やあらぬ

   姉妹神おすじ

という「兄弟が海を渡る時には、霊力を通わせて航海を守る姉妹(ヲナリ)神」の情景と同じ構図のように思えてならない。

 干刈あがたが「見つづける」役を、ひとつの時代の終わりを見とどける祝女(ノロ)の役割を自身に振り当てた時、“夫”や“恋人”と心と体を一つにして女の幸福を得るために向かい合うことを、断念したのだと考えられる。それはちょうど、姉妹神(おなりがみ)が「その兄なり弟なりの男性の守護神であると信じられており、妻はその夫に対して何等の宗教的価値をもつものではない」ことと符号している。

 干刈あがたの作品のなかで“兄”がどんなふうに描かれているか、そして干刈あがたにとって「見る」ということがどういうことであったのか。その文体と方法の特質をみてみたい。

 

 午後一時四分。兄の手術は一時半からだと聞いている。風に髪を捲き上げられながら、私は足を踏みしめた。

 このごろしきりに、丘の上の2DKで一緒に過ごした者たちのことを思い出す。塗装工の新吉や間(はざま)組の富田や、店から脱走ばかりしていたケンの他に、誰がいたのだったろう。板前の島さん、歴史学者のシッポ先生。そうだ、狭い2DKに全員が集まった日があった。ステレオの日。いろいろな人間が寄り集まっていたあの2DKでは、安全な共通の話題は映画と音楽だった。ステレオの日は、それぞれ方向の違う道を歩いて行く人間たちが、偶然出会った祭の場だったような気がする。あの後みんな丘を下り、散って行った。丘の上には兄と幸子だけが残った。坂を登り切った。のぞみが丘団地を貫く舗装道路がまっすぐ伸びている風景を見るために、私は立ち止まった。

 

 一九六二年十二月二十四日、午前零時過ぎ、まだ片側が造成工事中の新青梅街道を、中古のライトバンはロデオの馬のようなお尻を跳ね上げながら、杉並区内から西へ向って走っていた。後ろの荷台で、十個ずつ重ねられた輪島塗りの鮨容器や、白木の出前用岡持がカタカタなった。

 助手席に座った私は、ビニール靴の型そのままの氷になってしまいそうな爪先を、時々交互に踏んで揉みほぐした。

 工事灯のむこうに、欅の巨木を敷地内に抱き込んだ武蔵野の古い民家が黒々と蹲っている。その日ライトバンは、私たち兄妹の実家と丘とをつなぐその道を三度往復していた。やがて所沢街道へと入る岐点で車は右に流れ込み、少し先の田無市内の六角地蔵脇からさらに右の道に入った。その先はもうアスファルト舗装されたまっすぐな道なのに、車はゆるやかな流れに吸い込まれるイカダのように右に寄って行く。そのたびに私は、運転席の兄に声を掛けた。

「アニ、眠らないでよ」

 兄はハッとしてハンドルを切るが、また瞼が垂れてくる。

「どこかに停めて、少し眠った方がいいんじゃないの」

「もう少しだから行こうよ。何か歌でもうたおうぜ」

「何うたおうか」

「〈進みゆく世界の轍〉ってやつ、俺、好きなんだ。ワダチってのがいいよな」

 兄の口前奏に続いて二人は合唱した。

 

 学び舎に集いし我ら 睦み合い励みてゆかん

 進みゆく世界の轍 見つめつつ理想に生きん

 見つめつつ理想に生きん

 

 新しき国の歩みと共にあり、我らがつとめ

 いつの日も心に深く 育くまん夢と光を

 育くまん夢と光を

 

 それは二人が卒業した、杉並区と練馬区の境あたり、西武線沿いの新興住宅地の中学校の校歌だった。まだ周囲に兵舎が残っている元軍用地の、高射砲陣地の跡に中学校が新設された時、初年度の在校生からの公募で作られた歌詞だった。

「あそこの校庭に、ドデカイ穴があいたんだよ。大雨が降った翌日、俺はサッカーでゴールキーパーをやってたんだけど、フルバックが駆け抜けた後、眼の前でドカンと校庭が陥没したんで、びっくりしたなあ。それで、あそこの地下にはまだ地下壕が縦横に走っていることがわかったんだ。〈新しき国の歩みと共にあり〉だなって、特攻隊帰りのS先生が笑ったんだ。君たちは知らんだろうけど、戦争の穴を埋めないままに、その上に土を盛って、そこで走り回っているんだぞって」

 ライトバンは二年前に完成したばかりの、ひばりが丘団地に沿った道を通過した。ヘッドライトの中に次々に出現する同じ形の四角い建物は、ベランダ側を見せていた。殆どの窓はもう灯りを消していたが、ぽつりぽつりと灯りの点っている部屋は、それぞれカーテンの色が違っている。ベランダには物置や物干台や植木鉢が置かれ、コンクリートの建物には生活の匂いがしみつき始めていた。兄が言った。

「頼むよな。店の連中は寄せ集めだから、身内のお前と幸子が頼りだから。悪いな、お前は勉強しなくっちゃならないのに。お前はいつも俺のワリ喰ってるな。今度だって店を出すために、親爺の退職金の前借り全部使っちゃたし。でも昼間は遠慮なく大学へ行けよ。夜、毎日の帳簿だけやってくれればいいんだ。俺と幸子は板場と店で精いっぱいだから」

「いいのよ。今までだって、夜はずっとアルバイトだったんだもの」

 ヘッドライトの中に時折、農家や小さな祠が出現する畑の中の道を、ライトバンは排気ガスを撒き散らしながら走り抜けた。

「月曜日の兄弟たち」

 

 “恋人”や“夫”と向い合った時、干刈あがたは「見ること」より先に、混乱し、戸惑い、ぎこちなく内向してしまう。しかし、“兄”に寄り添った“妹”である時、干刈あがたの「見る」という役どころは、古典古代の巫女的な雰囲気さえ感じられる。

 干刈あがたの作品が、彼女の際立った記憶力の再現描写でもあることは、彼女の巫女的な特異な能力によっていたといえるかもしれない。そして、そのことを彼女自身も知っていたのではないか。そして、自分が見てきたものを“見たまま”描写することが彼女の文学の“方法”になったと考えられる。

 

 あれは過ぎた時の中で起こったことだ。物が豊かになっていく、闇がひらかれていく端緒の時に居合わせた、時の息子たち時の娘たちに与えられた出会いだった。そのいじらしさも一条の清冽さも。時が与えた場で彼らはそれぞれの役を演じた。私に与えられた役はたぶん、見ること。だが間もなく私は忘れてしまった。台所の食器棚のガラスに映る、表情を失った自分の顔を見るまで。

「月曜日の兄弟たち」

 

 「琉球の一般女性は皆巫女的な素質を有し、巫女的生活をなしたものであった」(鳥越憲三郎「琉球古代社会の研究」)という言説を飛躍させて、日本の一般女性まで広げて解釈することが可能ならば、干刈あがたより上の世代の無数の無名の“干刈あがた”たちは、自らの巫女的な特異な能力に目覚めることなく、この時の干刈あがたのように忘れてしまったのだと思われる。しかし、七〇年代以後家族の共同性が社会から閉じるように保持される必然が消失し、日本家族史上はじめて日本の家族は社会に剥き出しにされ、このときまで数千年の単位で受け継がれてきた〈アジア的〉な〈母系的〉な〈原型的〉な家族が解体した。そして、干刈あがたは夫婦の破綻に直面し、アジア的な〈家族(母性)〉の終焉を自らが演じたことによって、自分が“遅れてきた祝女(ノロ)”であることに目覚め、その終焉がどんな血を吐くような“はじまり”としてあったのか書き留める(=見る)ことをひき受けたのではないかと考えられる。

 

 このあと、この作品はこのように続けられている。

 

 東京オリンピックの開会の日、五輪のマークの飛行機雲を、私は大学に退学届けを出さないまま就職した会社の窓から見ていた。兄が徹夜で働くために飲んでいたドリンク剤を生産している製薬会社の〈ファイトで行こう〉というキャッチフレーズを生んだ宣伝部の部屋で。製作中のトイレの芳香剤の宣伝文を自分のデスクに広げたまま。

 そしてそこで出会ったあの人と結婚した。結婚した時、あの人が持っていて、私も持って来て、本棚に二冊並んでしまった本があった。リロイ・ジョーンズの〈ブルースの魂〉。二人で一緒に物置をいっしょうけんめい探せば、まだどこかにあったのかもしれないが、仕事で忙しいというのが口癖のあの人には時間がなく、私は探す気持を失っていた。友子さん、旦那サマガヨク働イテ仕事ヲ拡ゲ成功スルコトニ何ノ不満ガアルノデショウ。そう言われ続けて、いや自分で自分に言い聞かせ続けて、夫の背中ばかり見ていた私は、いつのまにか彼が家にいる時も、夫に背中を見せて無表情に流しで皿を洗う妻になっていた。あの人に別の女性がいるのを知った時、私はむしろ救われたような気がした。

 

 この時、同じように無数の無名の“干刈あがた”たちが、「台所の食器戸棚のガラスに映る、表情を失った自分の顔を見て」、うろたえ、戸惑い、おぼろげに輪郭を現した「Love」を前にして自問し、途方に暮れ、それぞれの決断をしてひとつの時代の終わりを、人知れず越えていったのだと思われる。

一九九七年一月十七日