(六)補遺 江藤淳『成熟と喪失─“母の崩壊”』と干刈文学のモチーフ
“母の崩壊”というサブタイトルがつけられた江藤淳の『成熟と喪失』が上梓されたのは、一九六七年六月である。六十七年というのは、私にとって十月八日、十一月十二日の第一次・第二次羽田闘争といわれた佐藤首相南ベトナム訪問・訪米阻止闘争があった年として印象深い。その闘争が口火となって七十年安保闘争や大学闘争が一気に展開されていったように記憶している。京都の学生であった兄が十・八の羽田闘争の帰途、当時高校二年生であった私の岐阜の下宿へ立ち寄り「山崎君が死んだ」ことを緊張と興奮が冷めないまま話してくれたことを思い出す。
高校から大学にかけて、噴流が出口をみつけて吹き上がるように学生運動や政治闘争が過熱するなかで私が感じていたことは、スチューデント・パワーといわれた欧米の学生や体制にプロテストしはじめたソビエト連邦の同世代の人々たちと、私がいま感じたり考えていることは同じではないだろうかということであった。私たちの世代的な情況認識や政治的な感受性も、突破しようとしている“壁”や抱えている問題の困難さも世界的に同じなのではないかと思われた。
それは、江藤淳が「成熟」という言葉で提示した欧米的な父系的な世界の価値の終焉であり、米ソ二大国による世界支配の終焉や日本の戦後民主主義思想の終焉など、さまざまな時代の終焉の劇を私たちの世代はその出発に重ね合わせているという漠然とした連帯感のようなものであったと思う。
江藤淳は“成熟”という批評のキーワードをたぶん彼のアメリカ体験のなかでつかんだのだと思われるが、私たちの世代は、欧米的な孤独な“個”の「成熟」が解体してしまったという認識を思想的な出発にしている。そして、私の『成熟と喪失』の読後感が江藤淳の精緻な文芸批評にさまざまに触発されながら微妙な異和と不満を感じたのも、彼の欧米的な「成熟」をキーとして日本的な未成熟な“個”を対比する分析そのものに対するものであった。
江藤淳は“あとがき”のなかで「成熟と喪失─“母”の崩壊」というモチーフをどのようにつかんだか述べている。
文学にあらわれた日本の「近代」の問題を、「父」と「子」の問題としてとらえようとする発想は、大分前から私のなかにあった。それはたとえば『永井荷風論』(一九五八)にあり、『小林秀雄』(一九六一)にある。しかしそれを「母」と「子」との、あるいは母性の崩壊の問題としてとらえようとする視点が定まったのは、一九六四年の夏に二年ぶりに米国から帰ってきてからである。
そのときの私には、一面であまりに急激に進展する日本の産業化に対するおどろきがあり、半面この過程で日本人の心理に喰い入って行く「アメリカ」のイメイジの大きさに対する再認識があった。この現実を直視しようとしない理論はすべて有効性を失っているように見えた。
しかしそういう私が、「“母”の崩壊」という主題をさぐりあてたのは、「朝日新聞」の「文芸時評」担当者として、小島信夫氏の「抱擁家族」、庄野潤三氏の「夕べの雲」以下の一連の現代小説に触れる機会を得たためである。これらの作品から受けた新鮮な印象を反芻するうちに、私は在米中に読んだエリック・H・エリクソンの著作『幼年期と社会』をしばしば思いおこした。
江藤淳『成熟と喪失』あとがき
江藤は「“母”の崩壊」という主題を確かにさぐりあてたかもしれないが、「“母”の崩壊」の意味について文学的にも思想的にも分析したり言及したりしているわけではない。「“母”の崩壊」というさぐりあてた主題は、「『成熟』するとはなにかを獲得することではなく、喪失を確認することである」とあるように、日本社会の息子たちが「成熟」に至るための条件としてとらえられており、江藤の関心は、経済的に自立しはじめた日本社会の息子たちの「成熟」をアメリカ社会の息子たちの「成熟」と対比することに向けられている。
そして、「成熟と喪失」は次のように書き始められている。
《歌をうたうことは母が得意としたものの一つだ。この病院へ来てからも、他の昔の記憶は一切失っても歌だけは長い歌詞の最後まで歌っていたということだ。信太郎は子供のころから母の歌で悩まされた歌詞の一つをおぼえている。「をさなくて罪をしらず、むずかりては手にゆられしむかし忘れしか。春は軒の雨、秋は庭の露、母は泪かわくまなく祈るとしらずや」というのがそれだ。いわばそれは彼女のテーマ・ソングだった。どうかすると一日のうちに何遍となく繰りかえしてその歌をうたった。たぶんそれは半ば習慣的、無意識的のものだったにちがいない。だが、聞く方の信太郎にとって、それは無意識なだけに、母親の情緒の圧しつけがましさが一層露骨に感じられた。その圧しつけがましさのおかげでしばしば彼は、母親にとっていったい自分が何であるのか、母とは何であり、息子とは何であるのか、問いかえしたい衝動を子供心におぼえたものだ。・・・・・・》(安岡章太郎『海辺の光景』)
私はこういう「圧しつけがましい」情緒が、どれほどの範囲の母と息子を拘束しているものなのかよく知らない。しかし一般に日本の母親と息子の関係には、これによく似た濃い情緒が隠されているように思われてならない。それはほとんど肉感的なほど密接な関係で、たとえばエリック・エリクソンが『幼年期と社会』で語っている米国の母子関係の対極にあるものである。エリクソンは米国の青年の大部分が母親に拒否されたという心の傷を負っているという。
日本の母と子の密着ぶりと米国の母子の疎隔ぶりのあいだには、ある本質的な文化の相違がうかがわれるはずだというのである。この特質が文学に影響をあたえないはずがない。そして今日、日本の作家が「成熟」を迫られ、しかも「成熟」の手がかりをつかめないでいるのが実情だとすれば、その原因はおそらくここまで遡らなければならないだろう。
江藤淳「成熟と喪失」冒頭
私が安岡章太郎の「海辺の光景」(一九五九年)や小島信夫「抱擁家族」(一九六五年)を読んで感じたことは、江藤がさぐりあてた「“母”の崩壊」という主題は、戦後日本の息子たちが「成熟」へと至るための「喪失」という文芸批評のモチーフを超えて、なおもっと文学的にも思想的にも重いのではないかということであった。「海辺の光景」の母の狂気と死、「抱擁家族」の妻の姦通とガンの発病と死にいいようのないリアリティーを感じるのは、敗戦とその後の闇市的混乱のなかでアジア的な“家族”の内部でなにかが崩壊し、ある本質的な変位が起こっていたことを文学的に提示しているからではないかと思われた。
養鶏の目算が外れてしまってからも、父は依然として家の中の庭にばかりにいた。母はいろいろのことをした。近所となりのアイロンをかけることから、闇物資のブローカアの手伝い、家の一部を美容師兼マッサージ師に貸して自分も客の頭髪を洗ったり、怪しげな手つきで肩や腰をもんだり、等々。無論どれもウマく行くはずもなく、生活は極めてあやうかった。一方、確実にやってくるのは、家の「追い立て」だった。・・・・家はすでに叔父の手から、いつの間にか第三者の手に渡っていた。突然やって来た叔父が顔一面に笑いをうかべながら、赤黒い顔の男を、わたしの友達だ、と紹介して、一人で先に帰ると、残ったその男が新しい家主であった。その後、男はさまざまの手段で、家の明けわたしを要求してきた。すると母は、またしてもどこかから得てきた新しい知識で対抗策をこうじた。「ふんあんな男が家主なものかね。あれは耕造の手先にきまっているよ。おおかた三百代言か何かさ。自分では云いにくいものだから、あんな男を使って。ダマされてたまるものか、耕造らしいヤリ口だよ。あの子はむかしから陰険だった」と母はイキまいて云った。
けれども、そのころから母の眼つきは変ってきた。眼玉のなかにもう一つ眼玉のあるような妙な光り方で、それが絶えずキョロキョロとうごき、ふと追いつめられた犯罪人を思わせた。
一日一日が、ぼろ布をつづり合わせたような毎日だった。朝はやく家を出た母は、夜十二時すぎの最終電車で、背中にサッカリンやアジノモトの荷物を負ってかえってくると、炬燵のヤグラにうつ伏したなり、そのまま寝込んでしまったりした。女手のない家の中は次第に乱雑をきわめてきた。蒲団はほとんど一年じゅう敷きっぱなしだし、押入れから引き出されたものは畳や床の間の上に置かれたまま、やがて部屋じゅうが下着や靴下や雑多なものでうずまったころ、こんどは空っぽになった押入れに順序も見境もなく、ゴミ溜めにゴミ屑を入れるように一切合財がほうり込まれるので、茶箪笥のなかにノコギリが入っていたり、押入れの中から食いかけのトウモロコシ粉のパンや汚れた茶碗がころがり出たりする。天井からはクモの巣が幾重にも垂れ下がり、綿屑やホコリがいつも舞い上がっているために、部屋の空気はぼんやりカスミがかかったように見えるのだ。そんな中で、父は七輪に松葉をくべてトリの餌にする魚のアラを煮たりしながら、自分が南方から持ちかえった品物だけは、チガイ棚の上にきちんと屯営の整頓棚をみるような奇妙な丹念さで片付けている。家全体が疲労の色に包まれ、日常生活のあらゆるディテールは混沌として、無秩序にくっつきあいながら重苦しく、熱っぽく流れて行った。「こんな生活をいつまで続けて行くつもりか。どうしてY村へかえって本家の世話にならないのか」と、まだ縁の切れていない親戚から、ときどき訊かれた。実際、「どうして」と訊かれると、それは家族の誰にもこたえようのないことなのだ。ただ、当の本家の主である元吉からは何の音沙汰もなかったけれど。
安岡章太郎「海辺の光景」一九五九年
ここに描写されているのは、敗戦によって外堀が埋められその後の闇市的混乱のなかで内堀が埋められ、外的にも内的にも日本的な“母性”と“父性”が崩壊した姿である。そして、このとき息子は「(軍隊で患った結核が治らず)熱っぽい蒲団の中で彼の頭にうかぶのは、実行には決してうつらないさまざまな自殺の方法や、それについての夢のような考えばかりだった。」というように、ただ放心してあやうく佇立していることしかできなかった。
私は、敗戦とその後の闇市的混乱のなかで日本国民が体験した人間の赤裸々な姿や社会や国家に対するリアルな認識=虚脱感が、戦後大衆の無意識のニヒリズムとして、一貫して戦後大衆意識の底流を形づくってきたと考えている(拙論「戦後大衆の無意識のニヒリズムの転換と憲法九条のゆくえ」)。また、日本家族が敗戦によって体験した変質=挫折感が、戦後家族が社会へ開かれていく道筋を決定したのではないかと考えている。
江藤が「“母”の崩壊」という主題をさぐりあてながら、つまり日本家族の本質的な変位をさぐりあてながら、次のように敗戦後の父と母と息子について言及している箇所は、彼の批評の方法がもっとも空転している箇所であり、その後の批評家としての江藤淳のゆくえを暗示している箇所でもあるように思える。
父親の経済力の喪失が権威の失墜を意味するとは、残酷な事実である。そして父の権威の失墜は、もちろんあの小宇宙の秩序の礎石が砕かれたことを意味する。この事態は信太郎が「出世」して父をしのいだからおこったのでもなければ、彼が父の権威に反抗して勝ちとったのでもない。敗戦という招かざる客が彼らの家庭という私的な世界に泥靴のまま踏みこんで来たためにおこったものである。つまりこの秩序の崩壊はまったく受身の事件であり、したがって予期せざるものである。そしていったん秩序が崩壊してみれば、そこにいるのは父と母と息子ではなく、二人の男と一人の女にすぎない。この三人の孤独な人間を支えるものは、かつて「息子」だった男のアルバイト料のほかになにもない。これはすでに家族ではない。単に個人の集まりである。しかもそこには「個人主義」などという思想の影響が少しも見られぬことはいうまでもない。思想よりももっと鋭利な「近代」が、家族のあいだのもっとも内密なきずなを切断した結果生じた解体がこれだからである。
母子はかつてあれほど緊密ななれあいによって「近代」が彼らの肉感的な世界を侵すのを防ごうとしていた。父は遠い場所で働いて俸給を稼ぐことによって、このなれあいに間接的に協力してくれた。しかし、そういうささやかな、私的な努力が無残に打ち砕かれる。それは「戦争」によってではなく「敗戦」によって打ち砕かれたのである。
江藤淳「成熟と喪失」
敗戦を「物理的な外圧」として日本にもたらされた最大・最強の「近代」として江藤はとらえ、敗戦による父親の失墜によって日本的な緊密で肉感的な母子のなれあいも打ち砕かれてしまったとここで解釈している。しかし、敗戦は“父性”の問題としても“母性”の問題としても、日本家族の内部の奥深くに本質的な変位をもたらしたものとしてとらえられる。
江藤は「日本的な母と息子の肉感的な密接な関係」と「米国の母子の疎隔ぶり」に注目するあまり、日本的な夫婦(=家族)がどういうものであったのか見落としてしまっている。あるいは「これはすでに家族ではない」という言い方のなかには、日本家族のこれ以上の後進的な姿を感受したくないという批評家としての触手を切り捨ててしまったような印象をうける。
日本的な夫婦(=家族)の姿は、日本的な「母子の密接な関係」と次のように描写された夫婦の姿が一対であり、それでもなおそれらを平呑して維持される後進性にある。また敗戦前までの日本家族は、江藤が考えているように「“近代”が彼らの肉感的な世界を侵す」という対立項としてあるのではなく、「近代」とは無縁な(後進的な)ところで営まれていたと考えられる。私には、「近代」に捉えられている息子・信太郎に父母のアジア的な姿が視えていないように、「成熟」に捉えられている江藤にもアジア的な家族の姿が視えていないのではないかと思われた。
信太郎はこの父親に似ているようだ。顔立から体つきまで、おかしいぐらいソックリだという。
母親のチカはいつもそのことを嘆いていた──彼女は不思議なほど夫を嫌っていた。信吉のあらゆる点が自分お好みでないことを、何十年間にわたって誰彼の別なく話してきかせた。一人息子の信太郎はとくに、何千遍となく聞かされた。「なにしろ、あたしは見合ひとつせずに結婚させられたんだからね。式の日になって、頭を青ゾリゾリに丸めた人が、カメの子みたいに着物の襟からつき出してノソノソこっちへやってくるのを見たときは、おおかた田舎の婚礼のことだからお寺の坊さんまで式に招んだのかと思っていたら、なんとそれが婿さんと聞かされて、あたしはほんとに、その場で逃げて帰ろうかと思ったよ」
安岡章太郎「海辺の光景」
アジア的な夫婦の姿は、この同じ妻が臨終間際に意識を回復したときにもらした言葉が「シンチャン」ではなく「お父さん・・・・・・」だったことに象徴されている。
母の呼吸はいくらか落ち着きはじめた。寛恕は眼を閉じた。部屋の外に足音が聞こえて父親があらわれると枕もとに坐った。そのときだった。「イタイ・・・・・イタイ・・・・」と次第に間遠に、眠りに誘いこまれるようにつぶやいた母が、かすれかかる声で低く云った。
「おとうさん・・・・」
信太郎は思わず、母の手を握った掌の中で何か落し物でもしたような気がした。父はいつものうすら笑いを頬にうかべたまま、安らかな寝息をたてはじめる妻の顔に眼をおとした。
安岡章太郎「海辺の光景」
このとき、「近代」に捉えられていた息子ははじめて夫婦のアジア的な姿に触れたのだと思われる。そしてこのときの驚きと衝撃は、「海辺の光景」の結びの次のような描写と密接につながっているのではないだろうか。
岬に抱かれ、ポッカリと童話風の島を浮かべたその風景は、すでに」見慣れたものだった。が、いま彼が足をとめたのは、波もない湖水よりもなだらかな海面に、幾百本ともしれぬ杙が黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱいに突き立っていたからだ。・・・・一瞬、すべての風物は動きを止めた。頭上に照りかがやいていた日は黄色いまだらなシミを、あちこちになすりつけているだけだった。風は落ちて、潮の香りは消え失せ、あらゆるものが、いま海底から浮かび上がった異様な光景のまえに、一挙に干上がって見えた。歯を立てた櫛のような、墓標のような、杙の列をながめながら彼は、たしかに一つの“死”が自分の手の中に捉えられたのをみた。
安岡章太郎「海辺の光景」結び
「近代」に捉えられていた息子にとって、アジア的な夫婦=家族は奇怪であり、不気味で醜悪で得体の知れないものであり、「近代」に捉えられた息子には理解を超えた存在であったかもしれない。しかし、息子である“私”は肉感的で密接な情感をかよわせ続けてきた“母”のまぎれもない息子である。作者(あるいは江藤)は、「近代」(あるいは「成熟」)に捉えられていた度合いだけ、アジア的な家族を担いつづけてきた“母”の死の意味について明確にいい当てることができなかった。が、少なくとも作家としての感受性がその“死”の意味するものの底深い喪失感を察知して、渾身の力こめて描写したのがこの結びの部分であると思われる。
江藤はこの結びに言及して「信太郎は、『歯を立てた櫛のような、墓標のような、杙の列をながめ』た次の瞬間に、彼が『自然』のなかでではなく、『社会』というもののなかで、つまり人と人とのあいだで生きて行かなければならないことを自覚しなければならなかった。」というように書いているが、もともと家族が社会に対して半閉半開型である父系的な欧米社会なら、“母”の拒絶や喪失は息子たちが「社会」へと出立することへ直結しているかもしれない。しかし、アジア的な家族が“母系的”で後進的なものであり、社会的な共同性から強固に閉じられており、“母”の崩壊が息子たちの「社会」への出立にすぐさま直結するほどアジア的な家族の何重にもはり巡らされたシールドは単純ではない。むしろ「“母”の崩壊」という思想的な事件を内部に潜伏させたまま、なおアジア的な家族の形態は保たれ、延命していったと考えられ、戦後家族の解体過程は、アジア的な強固に閉じられた母系的な後進性が少しづつ開かれ、開明化(社会化)されていった過程として理解できる。たぶん60年代の日本経済の高度成長によって、伝統的な村落共同体としての“ムラ”や“イエ”が壊体されるまでのなおしばらくの間、日本の“息子”たちは“母”の息子である至福の時間を過ごせたのではないかと思われる。
日本家族が「社会」という主題を射程にとらえるのは、家族の解体が完了し終わった80年代に入ってからであり、アジア的な家族の主要な担い手が“母”(主婦)であったことから、干刈あがたをはじめとする女性作家によって、さまざまに描写されている。
私は干刈あがた論を書きながら、あるいは戦後家族の解体過程を追いながら、現在家族の解体のはじまりをどこに求めたらいいのかと考えつづけてきた。私は戦後生まれであり、戦中や敗戦後の闇市的混乱を知らないが、私たちの父母や祖父母の戦後の姿から、吉本隆明の次のような洞察が現在家族の解体の震源であり、「海辺の光景」の結びで“一つの死”と察知されたものの思想的な実像であると考えている。
戦争時代の大衆が出征にさいして町内会の面々の前で、剛毅な紋切型の挨拶をやったということは大衆の〈家〉が露に社会的な規範力のまえに、はじめて登場したことを意味するはずである。なぜならば、大衆の〈家〉は、軍事型の社会であろうとなかろうと、もともと国家の規範力のまえに露にされることはありえないからである。家族法や規範のまえに直にさらされるのは、いつの時代でも知識人の〈家〉である。おそらく、戦争時代に、内心の思いとは裏はらに、紋切型の挨拶によって国家の規範力に形式的に応じたのは、知識人の方であり、大衆の紋切型の挨拶のもつ意味は、これとちがっていたはずである。大衆が〈元気でご奉公してまいります〉といった体の挨拶を見送りの町内会の面々にむかってやってのけたとき、それは、国家の規範力に対応する形式的な意味での紋切型ではなく、〈家〉そのものの全重量と水準とを国家の規範力に同化させようとする悲劇性を意味していたようにおもわれる。それゆえ大衆の出征にさいしての紋切型の背後に個人的な哀切さをみようとするのは知識人の感傷であって、哀切な大衆の〈家〉そのものが紋切型の挨拶によって国家への象徴同化作用をうみだしたのが事実であったというべきである。
ここで戦争期にはじめて〈家族国家〉の概念が擬制的に成立した。もともと、わが国家が家族国家的な形態で変態的に近代化したものでもなければ、国家と家族がわが国では本質をおなじくして存在したのでもない。戦争時代に、大衆が自らの〈家〉を紋切型にまで転化したとき、これを逆用することによって、はじめて、〈家族国家〉が成立したのである。
吉本隆明“情況とはなにかⅣ(知識人・大衆・家)”「自立の思想的拠点」一九六六年
敗戦は日本家族が日本家族史上はじめて体験した思想的な挫折であり、擬制的な家族国家の思想的な敗北である。社会的な規範力=国家のまえに開かれ無防備な姿となった家族の敗北によって、日本家族の核心部分に致命傷を負ったのである。そして、敗戦後の闇市的無政府状態が致命傷を負った日本家族にトドメを刺したのだと思われる。敗戦と敗戦後の闇市的無政府状態を日本家族が体験したことによって、アジア的な強固に閉じられた家族の姿を“放棄”することになる。それはアジア的な家族の思想的な“死”だったと考えられる。これ以後、日本家族は戦後資本主義の要請を受け入れ、社会へと開かれるように、あるいは進んで武装解除に応じるように解体していく。
干刈あがたの文学のモチーフは、このとき放棄されたアジア的な家族の何重にも防備された覆いがとり外され、「社会」に露出したときのアジア的な“母性”の最後の姿を描写することだった。干刈あがたは最後まで描ききれないまま亡くなってしまったが、干刈あがたより下の世代の若い作家たちにこのモチーフを引き継いでもらい、「社会」に躍り出た“母性”や“女たち”や“家族”のさまざまな姿をそれぞれの個性で描いてもらえればと願っている。
一九九七年十一月二十日