(三)干刈あがたにとって永瀬清子とは何かあるいは「樹下の家族」の構造

 

 与那覇恵子さんがつくられた年譜の一九七八(昭53)年のところには

 この頃、自室に織機を置き、母親の影響でずっと興味のあった織物を本格的に習い始めた。永瀬清子の、わかりやすいけれど鍛えられた言葉で日常の奥に潜む闇を描き出す詩の力に感銘を受けた。後の「樹下の家族」(一九八二年) は、永瀬の「木蔭の人」の対句として書き始められた。

とある。

 私はこの“対句として書き始められた”ということが、どういうことを意味するのかずっと考えつづけてきた。

 『試行』に掲載された永瀬清子の「短章集抄」は読んでいたが、詩集を読んだことのなかった私は、干刈あがたに導かれるように『永瀬清子詩集』を少しずつ読んでいった。そこで私もいくつかの印象的な詩に出会うことができた。

 

友達と云うものはないのですか、ここでは。

肉親と親戚と隣人のほかに

その精神を愛と理解でつないだ友達というものはないのですか。

あなたは大工私は詩人

それでよい友達にはなれないのですか。

男であり女であり

それでよい友達にはなれないのですか。

お互に温い心を抱いて

お互に成長をよろこぶさびしいこの世で力をあたえる

我が魂の難破をささえる――。

 

公会堂の屋根の上から村をみれば

川はしずかにめぐっていて

夕日はいまあおくかなたに落ちようとする。

この不思議なる一日に

あなたの魔術の手下となって

私は蜂のように働きました

長い梯子を昇り降りして

屋根板や釘をとってあげますたびに

私の誠実もさしあげました。

だのにそれは今日一日

かわらぬ友達と云うものはないのですか、ここでは。

さびしい孤立の生活を

私はかしこのくずれた白壁の家でおくるのですか。

一日光のようにすばやく小気味よく

詩人を使役した人よ

あなたの鋸や鑿のようにも磨ぎすまされる

私の値打をお気づきではなかったのですか。

「村にて」 詩集『焔について』(一九四七~一九四八)

 

 この詩は「木陰の人」とともに干刈あがたが最初に好きになった詩としてあげているものである。大工の私にとっても“あなたは大工わたしは詩人”というフレーズはとても印象的だった。詩人と大工がこのように出会い、お互いを認めあい、ささえあう日がくることを私も願っている。

 永瀬清子がこのように“あなたは大工私は詩人”と気押されすることなく真っすぐに立って(心のなかで)呼びかけることができたのは、終戦後まもなく女手で“水田三反”をつくるという厳しい農作業に従事したことによって、永瀬清子が自らの詩を書く場所と方法をひとつの思想を獲得するようにつかんだからだと思われる。

 

私はかぼそい苗を植えた

私は肩にしなう肥料をかつぎ

私は汗にあえて畦泥をこね

今満々と満ち来たる山川の流れの

わが田に小さい渦をなして注ぎ入るところに

私はかぼそい苗を植えた。

我と家族の命をつながんために。

わが詩の命をもつながんために。

わが苗のそよぎの  

あまりに緑うすく柔らかなるがあわれさに

心にちかって人並みの百姓にならんと思うた。

「苗」詩集『薔薇詩集』(一九四八~一九六〇)

 

 このようになされた密やかな決意によって、ひとりの詩人であることとひとりの人並みの百姓(女)であることが拮抗したバランスをとるようになる。そしてこれ以降、永瀬清子の詩はアジア的な〈家族〉のなかで献身と奉仕を強いられ黙って耐えて家族をささえて死んでいった女たちの“願いや祈り”に詩の言葉が肉薄しながら、そのような女の系譜に対峙しかつ同化する二重化された方法的(思想的)な場所で書かれるようになる。

 

焔よ

足音のないきらびやかな踊りよ

心のままなる命の噴出よ

お前は千百の舌をもって私に語る、暁け方のまっくらな世帯場で――。  ※世帯場=厨

 

年毎に落葉してしまう樹のように

一日のうちにすっかり心も身体もちびてしまう私は

その時あたらしい千百の芽の燃えはじめるのを感じる。

その時私は自分の生の濁らぬ源流をみつめる。

その時いつも黄金色の詩がはばたいて私の中へ降りてくるのを感じる。

 

焔よ

火の鬣(たてがみ)よ

お前のきらめき、お前の歌

お前は滝のようだ

お前は珠玉のようだ。

お前は束の間。

 

でもその時はすぐ過ぎる

ほんの十分間。

なぜなら私は去らねばならない

まだ星のかがやいている戸の外へ水を汲みに。

そしてもう野菜をきざまねばならない。

一日を落葉のほうへいそがねばならない。

焔よ

その眼にみえぬ鉄床の上に私を打ちかがやかすものよ

わが時の間の夢殿よ。

「焔について」詩集『焔について』(一九四七~一九四八)

 

 永瀬清子は一九〇六年生まれであるから、この詩は四十歳を過ぎた頃に書かれている。永瀬には二十代の前半に書かれた詩集『グレンデルの母親』(一九二五~一九三〇)がある。そこには永瀬清子の詩人としての資質が表明されている。

 

グレンデルの母親は

青い沼の果ての

その古代の洞窟の奥に

 (或は又電柱の翳のさす

 冥い都会の底に)

銅色の髪でもって

子供たちをしっかりと抱いている。

 

古怪なるその瞳で

蜘蛛のやうに入口を凝視している。

逞しいその母性で

兜のように護っている

子供たちはやがて

北方の大怪となるだろう。

 (或は幾多の人々の涙を

 無言でしつかり飲みほす者となるだろう。)

 

凄愴たる犠牲者の中をも

孤りでサブライムの方へ歩んでゆくだろう

悪と憤怒の中にも熔けないだろう。

そして母親の腕の中以外には

悲鳴の咆哮をもらさぬだろう!

 

新鮮な鉱物のような

夜の潭(ふか)みからのぼる月の光は

古代の沼に

(或は都会の屋根瓦に)

青く燃え立ち

グレンデルの母親は

今洞窟の奥でひそんでいる。

「グレンデルの母親は」

 

 近代詩の洗礼を受けた永瀬清子が、二十代の前半に自らの資質を“グレンデルの母性”として認識し表現したものが、二十年後、“心にちかって人並みの百姓”であることをひき受けることによって、永瀬の資質が〈アジア的な母性〉へと開かれていったのだと考えられる。それは、干刈あがたが“出自としての南島”を自覚することによって遠い時の彼方(古代以前)からやってくる(姉妹神的な)視線を獲得したように、永瀬清子もヨーロッパの古代以前的な(ケルト的な)母性の自己認識から〈アジア的な母性〉へと開かれたことによって、家族が営まれてきた永続的な姿や家族のなかの女たちが時間をこえて受け継いできた普遍的な姿に詩人の姿(資質)が重なったのだということができる。このような自覚は、詩においてはかなり方法的であったと思われる。一九五〇年代に入って書かれた詩集『山上の死者』(一九五二~一九五四)のなかの「わが麦」 「鎌について」や詩集『海は陸へと』(一九六五~一九七二) のなかの「石炭と思って」などによって知ることができる。

 

まひるの中の月の光

横顔の眉のやさしさを象どって

いつも私につき従ってくるもの

この氷のとげ。

 

叢の中のさびしい音をしのばせ

お前は私の鉄の爪。

カヤツリソウやサギソウや水のそばの柔らかい森で

青いなつかしい禾本科の放つ匂い

カエルマタや、サワトラノオや、コマツナギ

そしてピグミイノカーテン

この時不意に赤縞の蛇は

すみやかに水を渡って逃れ去る。

やすらう私の手からお前がすべり落ちて

川底の金砂に突き立った時に――。

 

いつも磨きすまして

物憂い私の思念を切り割いていくもの

山の木々の枝をなぎ落とし

私を行動に拍車するもの。

その曲線には渦がある。

その焼きの匂いが

私を具体的にすすめる。

お前を持たぬうちは私はただ純潔であった。

お前が私の掌へ来てから私はすべてを速く刈る。

お前は最も原始的だから私の心に最も近い。

私はお前のかげにいつも我身をかくす。

鎌よ

お前は地球と私の心を率直に剃り放つ。

お前、とげが薔薇を守るように我に在れ。

「鎌について」

 

石炭と思って燃やしていたものは命であった。

靴と思ってふんだものは血のつづく蹠(あなうら)であった。

指を切って畝に蒔き

心臓をきざんで家畜に与えた。

 

風が樹々の竜骨を喬く揚げる時

彼等と共に夜じゅう巨浪をのりこえた。

あすの朝こそ私は薔薇の蕾になろう

あすの朝こそつめたく散る滝になろう

その祈りで年を経た。

 

雲間に心を射るような瞳がみえた

と思ったら

それは新月の昇ってくるのだった。

目にもとまらぬ速さであじさい色の空を泳ぎのぼる

おおあの月が西の天末に

しづかにしたたり落ちるまでに

私は自分と見わけもつかぬ泥の上衣をぬいで

しばし茨の床に自分をやすませよう。

「石炭と思って」

 

 このような永瀬清子の詩を干刈あがたはどのように読み、受けとったのだろうか。

 

 わたしは心の中に薄暗がりを抱いて薄暗がりの中を歩くように、結婚し子を産み生活し、ようやく三十代になってから永瀬清子の詩と巡り会いました。初めて永瀬清子の詩を読んだ時の印象は、彼女自身が自分の中の薄暗がりと周囲の闇をみつめる眼光の強さ自体が明かりとなって、彼女の立っている場所の闇とつながっているこちらの闇をも照らしてくれる、そんな感じでした。そんな人が一人、私の少し先を歩いている、と手に取るようにわかる心強さをこちらに伝えてくれたのです。

 私は永瀬清子の詩を読みながら、もっと早く読んでいればよかった、と思う一方で、もし二十代の時にこれらを読んでいたら、私はこの明かりは見えなかったかもしれない、とも思います。私は自分が生活経験を重ねてみて、女が家の中にいることや子育てで身動きできないこと自体が不幸なのではない、その中には考える種がいっぱいあり、命に近いところにある豊かさをいっぱい感じられる場所なのに、そのことに気がつかないことが不幸なのだ、と思うようになりました。そこからものごとを見つめたり考えたりしたい、と思うようになった私に、ようやく見えた明かりだったのではないかと。

 

 私が永瀬さんの詩を読んですぐに呑みこめないことがあるのは、私が戦後の女であり、永瀬さんたちの生きてきた歴史をよく知らないせいもあるかもしれません。歴史は勝者によって書かれる。勝者と敗者ではないかもしれないが、男と女も、学問をし文字を知っている男が歴史を書いてきた。女の思いは薄暗がりの中の溜息にとじこめられていたのかもしれない。

 永瀬さんの詩を読みながら、娘と孫の中間くらいの世代に当る私は、言葉にすることができなかった母たちの思いを、回り道して受け取ってもいるのだと思う。そしてその思いは、今の私の中にあるものと、そう変わってはいない。世の中は変わったように見えるが、そこに含まれている問題は変わっていない。どころか、ますます悪くなっているように思える。

干刈あがた「伝える、伝えられる」現代詩文庫『永瀬清子詩集』解説(思潮社一九九〇年)

 

 私はここまできて、ようやく干刈あがたの「樹下の家族」が永瀬清子の詩「木蔭の人」の“対句として書き始められた”という最初の問いにもどることができる。しかし私の“なぜ”はなかなか答えに届かない。それは「木蔭の人」で表現されているものと「樹下の家族」で書かれているテーマが直接的には結びつかないからである。私の“なぜ”はひとつの迂回路をへて、つまり「木蔭の人」がどのように書かれた詩であるのかその構造を知ることによって、「樹下の家族」にこめられた干刈あがたのメッセージを見つけることができるかもしれない。

 

私はさっきから木の蔭で

あなたがじっとみていらっしゃることに気がついていた。

夫にいたわられて

チチアンや

ルノアールのような白い輝きにみちたあなたが。

 

ただ一人あえぎながら

苦汁の火花の中で鍛えられて来た私。

今立派にすっくとつっ立って

どうやらあなたの夫と話をしている私。

もう恥ずかしさもなく

ただ一人前の人間らしく――。

でも私は気づいている。

あなたの眸が青々と

濡れたように警戒と心配で光っているのを。

私の驕った心がやさしくなる

女のあわれさが身にしみて

私は次第にうなだれてゆく。

 

ほんとにあなたの夫はすぐれた方

その前に立つことが私の小さなよろこびであることを

あなたはするどくみぬいていらっしゃる。

鍛えられた私の皮膚が金色にかがやいていることを

あなたはちゃんと見ていらっしゃる。

その上にも私が雲のように襞多いブラウスで来たことを知っていらっしゃる。

そしてまあたらしいシャッポでいることも。

あなたは何もかもみぬこうとしていらっしゃる

さびしいような潮が私の胸にこみあげる。

幸福なあなたから

ほんとは私は何ひとつ取上げようとはしていない。

ただ一人前の人間らしく

お話しできるのがうれしいのだ。

ああ邪悪な何ものにも乱されず――

 

私の心は次第次第にうなだれる。

ああどうしてだかわたしら女というもののあわれさに――。

         「木蔭の人」詩集『焔について』(一九四七~一九四八)所収

 

 これは永瀬清子が詩人であることとひとりの農婦であることを渾身の力をこめて思想として取り出した後、力を抜いて自分のすがた(女としての)をふりかえり、誠実に描写しているという詩である。干刈あがたがこの詩に魅せられたのも、たぶん永瀬清子の渾身の力の入れ方とその力を抜いた後の赤裸々なまでに素直なふりかえり方だったのではないだろうか。

 「樹下の家族」は、デビュー作にふさわしくその後の作品で展開されるさまざまなモチーフが幾柄ものモザイク模様に織りこまれた干刈文学のエッセンスのような作品である。

 「樹下の家族」という小説のタイトルは、作品のなかでは次のような家族の姿から連想されたものとして説明されている。

 

 『ある時その人は、町へ入るのが真夜中になってしまったそうです。そうしたら、何人連れかで歩いている人たち、何組かに会ったそうです。どの一団も夫婦と何人かの子供や年寄りの家族だったそうです。インドでは貧しい階級は一つの家に何家族も住んでいますから、いっぺんに寝られなくて、夜眠る家族と昼眠る家族とで交代するんだそうです。それで夜起きている家族は、何もすることがないから歩いているんだそうです。

 それからその人は、飛行機の切符が手に入らなくて、数日間一つの町にいたんだそうです。一日目の昼間、ある樹の下でぼんやりしている母子連れを見たそうです。夕方そこを通ったら男が加わっていたそうです。次の日の昼間はまた母子だけで、夕方通ったらまた同じ人たちがぼんやり座っていたそうです。その町にいる間じゅうその人は、気になってその樹の下を見ていたそうです。そうしているうちに、家は荷物も何もなくて、ただぼんやりしているだけでも、その樹の下は家庭なんだなあと思ったそうです。」

p43~44 単行本『樹下の家族』

 

 「樹下の家族」は、一九八〇年十二月ジョン・レノンが死んだ日、三十七歳の“私”が、沖縄青年と出会い、不在がちな夫と二人の子供との不安定な生活を六〇年代の青春とオーバーラップさせて描いた作品である(与那覇恵子・著書目録)。あるいはまた、このインドの話を“私”に語っている沖縄青年を小説の進行役に永瀬清子の「木蔭の人」を隠れた水先案内人にして、破綻しかかった夫婦がもう一度お互に心を開いて向き合うことができないか、身を切るように内省している作品であるということもできる。

 主旋律を奏でるモザイクをつなぐようにして追っていくと、四十歳を前にした干刈あがたが渾身の力をこめて向い合おうとしているものが浮かび上がってくる。

 

 人との折衝や心理的なイザコザが嫌いな夫の肩代りを私がすることは、ますます彼を仕事の場だけに追いこんでいるのかもしれない。子供が小さかった頃、夏に柴田の実家へ子供を連れて行くのも、仕事が忙しいと言われれば、私は次郎を背負い太郎の手を引き、オムツの入った大きな鞄をかかえて、がんばって信越線に乗った。それが夫を助け家庭を守っていくことだと思っていた。でもそれは間違っていたのかもしれない、とそんなことを総会の間ずっと考えていた。

p20~21

 

 こんなふうにひとつ目のモザイクがはじまり、次第に自分自身との間合いが詰められていく。

 

 エレベーターで一階に下り、路上から見上げると、マルチスクリーンのように見えた窓々の人影は見えない。柴田の仕事場もアルミサッシの窓と天井の蛍光灯の一部が見えるだけだった。私は路上に出ると再び、今日も夫と話をしなかったとうつむき、一人で子供を育てることに不安を感じる妻になっていた。まっすぐ家に帰る気になれなかった。

 けれど、以前この近くに借りていた仕事場が手狭になって、もっと広いところを欲しがっていた夫の気持ちを察して、物件を捜したり銀行融資の交渉をしたのは私自身だった。家庭と子供のことにもかかわって欲しいという気持ちを、あの鉄扉の中に閉じこめたはずなのに。いや私はもしかしたら、悪意をもって夫を閉じこめてしまったのかもしれない。クーラー、床暖房、換気装置、照明具、テレビ、電話、ラジオカセット、瞬間湯沸装置付き風呂、水洗トイレ、冷蔵庫、電子レンジ、水も湯も出る水道、などの装置された部屋に。そこはまるでシェルターのようだ、もし、いい仕事仲間たちの人間臭が無ければ。

p24~25 

 

 無意識の悪意かもしれないという自問は、“私”にはすでに予感として夫婦の破綻の理由が察知されているといえるかもしれない。それは日常的には“危うい母親(p34)”という自己認識につながっている。この自問は破綻しかかった夫婦の岐路を干刈あがたが渾身の力をこめてふりかえり、できるならもう一度夫婦として再生してみたいという秘そかな願望から発せられているようにみうけられる。しかし、干刈あがたの自問は自分自身への間合いは息苦しいほど詰められていくが、夫との間合いが詰められることはない。これは次に続くモザイクの奇妙な自問の仕方に端的に表れている。

 

 女が男に自分の体の話をする。それはどんな形であれ一種の誘惑だと思う。私はそういう女の悪のようなものを見つめすぎるかもしれない。女は〈あなたの子が欲しい〉と言う。けれど本当は女は〈子が欲しい〉のだから、〈あなたの子よ〉と責任を押しつけるのは間違っている、などと思ってしまう。

 私が夫に負担をかけずに子供を育てようとしていたのも、私は夫をだまして子を産んだような気がしていたからだ。私たちは結婚した頃、子供を持たないという気持を共有していた。未来が決してよい時代とは思えないこと、自分一人さえ、いろいろな思いを抱えてやって生きているのに、子供を持つなんてという気持。暗室用の黒いカーテンを張りめぐらせた小さな部屋で、私たちは互に向き合うのではなく、夫はパネルに向い、私は原稿ノートに向うことで安定していた。その一方の手を放し、子供を欲しいと思いはじめたのは私だ。

 週刊誌の下請けライターの仕事で、ある女優の六本木のプロダクションへインタビューに行った帰り、自宅近くの商店街でネギや肉を買って住宅街を歩いていた時、夕暮の路上で遊んでいる幼い女の子を見た。小さな服の可愛らしさに見とれた。柔らかそうな頬の感触や膝に乗る小さな体の重みやぬくもりを思った。彼女をさらってしまいたい気がした。幼女をさらうには絶好の、逢魔が刻だった。結婚して二年が過ぎ、私は二十六歳だった。

 子供を持ちたい、という私の訴えに、柴田は言葉でも行為でも答えなかった。〈今日は大丈夫よ〉という女の悪のささやき。それが私にはずっと負い目になっていた。そんなふうにして子を産んだのだから、仕事が認められて忙しくなってきた夫に負担をかけるのは間違っている、と思いつづけてきた。けれど、私が妊娠を告げた時、一瞬黙ってから〈産めばいいよ〉と言ってくれた時、彼もまた子に責任を持ったのだということに私はもっと素直になるべきだった、とこのごろ思う。私はゴーマンにも一人でがんばることで、夫と子供の間を隔て、家庭からはじき出していたのかもしれない。

p46~47

 

 干刈あがた(作中の“私”)が力をこめて自問すればするほど、奇妙な袋小路へ入っていってしまい、“夫”をはじき出してしまう構図になっている。私は“奇妙な”と形容しながら、日本の夫たちは須らく「家庭からはじき出された」夫の役回りを無意識に演じてきたのかもしれない。だから、干刈あがたの“奇妙な”自問に出会った時に、逆倒ちした自身の鏡をみているように切なく、悲しく感じるのだと思う。しかし、このような“奇妙な自問”を作中の“私”にさせている干刈あがたには、なぜこの袋小路(構図)に自分がからめとられてしまうのか、予感として問題の所在を察知しながら明瞭な自覚としてはなかったのではないかと思われる。したがって、自問はさらに自身を追い詰めることになり、妄想と紙一重のところまで進んでゆく。

 

 その頃は毎晩、家の小さな鉄扉が風で音をたてるたびに、私は耳をすました。独立して仕事場を持ち、柴田が家に帰らない日がたびたびあった。彼は仕事場に寝袋を持ち込み、仕事が切れない時にはソファで寝るのだった。でも・・・・・・と私は思った。その頃友人から、夫が仕事だと言うから信じていたら女だった、という話を聞いていた。子供を寝かせた後、タクシーで仕事場近くへ行き、窓明りを見て帰ってきたこともある。〈つまんないから来ちゃった〉と無邪気に装って仕事場を急襲し、コーヒーをいれて夫の机に置き、なんとなく出来かけの仕事をのぞいて帰ってきたこともある。いっそ、赤い口紅を塗った現実の女がいてくれたら、と見えない敵に焦立ちながらも、仕事なんだからと気持を押さえた。けれど、自分ではそう思っているのに、上京した柴田の母がほとんど息子に会えないまま、〈仕事が忙しいなら何よりだ〉という口癖を残して帰ったあと、私はプレスリーの死を報じるニュースにかこつけて、その歌を聞きながら涙を流した。

 想像の苦しみが、まるでもう現実に女がいるのと同じ苦しみになった時、私はいった。

 〈あなたを疑った。疑う自分が夫婦として一緒にいるのは嫌だから別れたい〉

 離婚用紙を前にして、柴田は何も言わなかったが、毎日帰ってくるようになった。時には明方の四時頃帰ってきて、何時間か眠ってまた車を運転して行った。顔が疲労で蒼黒くなっていることもあった。

 〈もう私は大丈夫だから、無理しなくていいの。遅くなった時は泊まってきて〉

 その頃から彼は、時々私にできる用事を言って、自分の仕事を手伝わせるようになった。私たちは本当にポキポキと不器用にしか寄りそうことのできない夫婦だ。p76~78

 

 「樹下の家族」は、「木蔭の人」の永瀬清子のように女としての赤裸々な自分を認め、小説のなかで夫への思いをできるものならもう一度素直に投げかけてみたい、という秘かな願望から書き始められたと考えてもいいように思う。しかし、永瀬の詩が女としての心の揺れや陰影を永瀬清子という詩人の輪郭に破綻なく表裏のように寄り添う形で書かれているのに比べ、干刈あがたは女としての自身の内奥の声を心を開いて聞こうとすればするほど、夫へのストレートな思いから逸れてしまい、“奇妙な”(というか普遍的なというか)袋小路へ迷いこんでしまう。これは書いている作者にとって、予感としてあったことであるかもしれないが、相当つらいことであったと思われる。それは独白するように差し挟まれた伝聞形式のモザイクが、なぜ挿入されたのか想像することによって知ることができる。

 

 〈単独登攀。三日目ぐらいまでは歌をうたいますね。水前寺清子の歌など。言葉のリズムが、音楽のリズムではなくて、言葉のリズムがこころよいようです。三日すぎになると、自分のうたった声が、自分の耳に返って聞こえるようになります。そのあとは何も聞こえなくなります。独り言を言っても無感覚です。この時がすごく寂しいですね。それを過ぎると、風の音や氷の軋む音が聞こえるような気がします。これはロマンチックなことではないんです。かなり極限に近い、危険な状態なんです。それを自覚して登ります〉若い登山家がテレビで言っていた。p14~15

 

 〈いつもすきま風が吹いているみたいに、レースのカーテンが微かに揺れるのよ。私、うろうろと部屋の中を歩きまわって、どこから風が吹きこむのか捜しまわったの。アルミサッシでぴったり閉ざされた部屋の中の温度と、六階の高さの外気との温度の差で、部屋の中に風が巻いていたんだとやっとわかったの。それから今度は、息苦しくて窒息しそうな気がして、夜中に窓を開け放したくなったの。換気設備もちゃんとしているのに、なんだか夫の匂いがこもっているみたいで、それが鼻についてたまらなかったの。だって仕事場と住まいが一緒で一日中そばにいるんですもの。このあいだジンマシンが出た時、自分でもびっくりするような意地悪な言い方で、きっとアナタにかぶれたのよ、なんて言っちゃった。自分でもどうかしていると思うんだけど〉

 六階の奥さんは夫婦が近すぎることで焦立っているようだ。

p25~26

 

 〈このごろ指をよくケガするの。包丁で切ったり、アイスピックでうっかり突いたり。昨日は外出して家に帰る時、切符売場でどうしても駅を思い出せなかった。頭の中が真っ白になって、しばらくぼんやり立っていたの〉

 ノイローゼで入院する前に電話をかけてきて訴えた、旅行添乗員の妻のU子。

 だんだん、だんだん肥ってきて、表情が虚ろになってきた、流行作詞家の奥さん。ある日私は、彼女が駅前の商店街の菓子屋の店先で、つと、袋菓子を買物袋に入れるのを見た。

 一流総合商社の課長の夫と、自閉症児の子の間で、精神安定剤をのみつづけているS子。

 二人の子供を残して自殺した、次郎の同級生の母親。

p65~66

 

 これらは七〇~八〇年代の家庭の主婦の内部でくりひろげられた普遍的な劇であったと考えられる。それは、時代の転換期が家族ー特にその中核的な担い手である主婦に強いた劇であったということができる。私たちの経済社会が、六〇年代~七〇年代にかけてアジア的な“後進性”を払拭し、八〇年代には大衆消費社会を実現したことにより、長い間社会を支えてきた慣習やしきたり・美徳や倫理・価値観や思想がことごとく解体され、社会が根底的に大転回してしまった。いま私たちが住んでいる社会は、アジアでもなくアメリカでもヨーロッパでもない“奇妙な”先進社会である。そして、この“奇妙さ”は干刈あがたの“奇妙な”自問の仕方とどこかでつながっているように思われる。

 干刈あがたの“奇妙な”自問を比喩的にいえば、アジア的な“後進性”を離脱したことを解放感として受け入れながらアジア的な後進性の中でしか維持できなかったもののあまりに深い喪失感に戸惑っている“奇妙さ”であるということができる。これまで長い間家族の共同性は、社会にたいして固く閉ざされるように維持されてきた。それが七〇年代以後、私たちの社会が貧困から解放されたことによって、私たちの個別的な“具体性”や“具象性”を家族の外でも発現することができるようになった。つまり、したいと思ったことをし、ほしいと思ったものを手に入れ、なりたいと思ったものになれるようになったことによって、家族が社会に向って開くように自己解体していったのだと考えられる。私のイメージでは、この時日本家族史上はじめて、日本の家族は社会に剥き出しにされたのであり、この衝撃は想像を絶するものであったと思われる。そして、剥き出しにされたアジア的な家族の姿が“母系的”であったことによって、家庭のなかの主婦たちはたったひとりでこの想像を絶する衝撃を真面に受けてしまったのである。

 この伝聞形式のモザイクが訴えているのは、無防備に社会に剥き出された家庭の主婦たちが、アジア的な“母系”的な特質によってだれにも助けを求めることも、傷を癒すこともできず家庭のなかで孤立している姿である。それを、干刈あがたは自らの資質と自虐的なつらい自問によって察知したのだと考えられる。

 それでは、干刈あがたが自問を繰り返すことによって、浮かび上がってくる家族の姿とはどんな姿なのだろうか。

 

 もともと干刈あがたの作品に登場する女主人公にとっては、性の主線は異世代のあいだを走っている。だから女主人公はいきおい母子家庭になってしまうほかないといえる。この女主人公にとって、家は母子のあいだに形成される様式をさすので、男性は外からこの母系家族に訪婚してきて、しばらく同棲し、また立ち去ってゆく存在として、無意識のうちにかんがえられている。

 「私」は「ワンルーム」のマンションのオーナーの妻で、管理人である宮園弓子であったり、「ゆっくり東京女子マラソン」のPTAの母親たちに分身してみたり、「樹下の家族」の樹の下にぼんやりと母子連れで座っていて、あるときはもうひとり男が加わっていることもあれば、また別の日は母子だけで樹の下に佇っているといったインドの浮浪の母子のような存在であったりしても、もともとはいつもおなじ種母的な性としてしか走らない存在だといってよい。」

吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅰ』「走行論」福武書店一九八九年

 

 ここで提出されている家族のイメージは、私の〈アジア的〉な〈原型的〉な家族=アジア的な概念としての家族のイメージと重なっている。干刈あがたの作品の女主人公について吉本のように的確にいい当てるのではなく、私は、干刈あがたの作品のなかの女たちの姿が、アジア的な“種母”的な女たち(=家族)の最後の姿を描いたものとして読んできたように思う。

 干刈あがたが渾身の力をこめて描写したのが、アジア的な〈種母〉的な女たちが無意識に演じていた終焉の劇であったとしたら、力をぬいて振り向きざまにとらえたのは、さまざまな風俗にふちどられて社会へ開かれていった家族や女たちの姿である。

 

 〈コーヒーゼリー買ってきてね〉

 次郎の電話の声はナマの声よりずっと幼く聞こえる。すぐ壊れる百円均一の小さな鈴のようだ。コーヒーゼリーを買ってこのまま帰ろうか。そう思いながら足は喫茶店にむかっている。次郎の茹で卵をつぶすような笑顔。

〈授業参観の時さあ、パセリ頭とジーパンで来るなよな。ちゃんとスカートはいて、お母さんらしくして来てね〉

〈了解。天才バカボンのママの線で行くわね〉

p10

 

 この会話の軽妙さと重いトーンのミックスされた危うくバランスが保たれている母子の情景は次作の「プラネタリウム」でひとつの作品となる。

 

〈さっきの坂道もう一度あがってみようか〉

すれ違いながら言った。このあたりに住みはじめたばかりの新婚夫婦だろうか。

 一階が車庫になっているビルの前を通る時、私のジーンズ・ブーツの靴音だけが響いた。ときどき片足をひきずってしまう癖。スニーカーの軽やかさ。

「歩くの速いんですね」と彼。

 そうだろうか、そうかもしれない。新宿から代々木へ、セッセ、セッセ。夕飯に間に合うように、スーパーへセッセ、セッセ。授業参観に、学校へセッセ、セッセ。のんびりやっているつもりだけれど、セッセ・リズムが身についていたのか。男の子と夜の街を歩くのも、セッセ、セッセなのか。

 並んで歩くと、食料難時代を覚えていないほどの乳幼児期に通過した女と、占領下のオキナワの食料事情は知らないが、ウォークマン世代の男との身長の差は大きい。話しかける時、かがみこむようにする。ついでに髪の匂いを嗅いでいるような気がした。ゆうべ洗っておいてよかった。

 過ぎてきた彼の年齢は、私にとってはつい昨日のような気もするが、二十歳の頃の私には、三十七歳という年齢は想像できない遠さだった。彼はいったい私を、どんなふうに感じているのだろう。子供がいるのに、夜、若い男の子と歩いている女。欲求不満の人妻と、子供の家庭教師の大学生という組み合せの年齢。

 ヨッキュウフマンノヒトヅマ。最も通俗的な言い方でうつむきたくなるが、それは当たっている。ただし、性行為そのものに対する欲求不満はない。むしろ何の気持ちの交流もないままに抱き合うことへのさびしさ。それはやはり性的な不満といえる。彼はその匂いを嗅ぎとってしまっただろうか。

 ハイト・リポート風に言うと〈単に性器の痙攣的快楽を得るためだけなら、男などいらないことを、この時代の女の多くはもう知っている〉

 ニューミュージック〈心のドアを開いて〉

 ポルノ風に〈股をひらかせるだけじゃイヤ。毛穴までひらかせて〉

 演歌〈その胸のその・・・・・・うまくいかないな・・・・・・あなたが欲しい〉

 というぐあいにCM風に言うと〈いい汗かきたいのです〉

 カメラマン荒木風に、というのもあるが、それは歩きながらでは出来ない〈見たい〉ですから〈股の〉機会に〈ヤッて〉み〈マス〉

p38~40

 

 かつてコピーライターであった頃の干刈あがたを感じさせる時代にも世相にも鋭敏な印象や軽快なリズムとテンポのある文章の理知的な印象と、力の入った自問からうける内気で内向的でヘビーな印象のギャップは、際立っていて、干刈あがたのバランスの悪さを感じてしまう。

 

 〈ギリマンは嫌です〉

と妻は言ったそうだ。ギリマン、何それ、とマリアが聞いた。私にはすぐわかった。それは妻たちの多くが、言いたくて言えないことだった。

 〈義理でマンすること〉

 クレイマーは言いながら笑い出してしまった。人はあまりにも本当のことを言われると、笑い出してしまうかもしれない。

 それから私たちは性の世代論ということを話した。例えば生理用品。晒しや古布を洗っては使い裏庭に隠し干した女たちと脱脂綿を充分含まれて重くなるまで使ってから槽の暗い所に捨てた女たちと、紙ナプキンを気軽に使い捨て水洗に流してしまう時代の女たちと、タンポン挿入世代とは、性についての考え方や表現の仕方、自分の性〈に関する諸問題の対策および解決法〉なども、ずいぶん違うんじゃなかろうかという話。私やマリアは脱脂面から出発し、紙ナプキンへの過渡期に高校生で、今はタンポンもあり。昔の女が百年一日だったかどうか詳しくは知らないが、私たちは二十年三日の変化だ。初めて紙ナプキンとアンネ・ネットという生理帯を使った時、あまりの軽さと頼りなさに不安を感じた。私たちはどこか性に対して不安定だ、昔の女ほど貞操堅固ではなく、タンポン世代ほどドライでもない、と結論(こじつけ)した。私は言った。

〈六〇年アンネ、七〇年タンポン、八〇年代は何だろう〉

するとノンがシャランと言ったのだった。

〈アンポンタン!〉

p68~69

 

 干刈あがたのきまじめに自問する姿だけを読んでいれば、少しかわった重いフェミニズム小説だということになるかもしれない。しかし、力を抜いて風俗を取り込みながら吐露される軽妙な会話や世相を鋭敏に切り取った描写から、私たちは現在家族の明るい悲劇性を感じとることができる。また、軽快さと重苦しさ、自閉的なまでの内向性と先鋭化された感受性という極端なバランスの悪さは、そのまま干刈あがたの危うさであり、現在家族の危うさともつながっていて、干刈あがたの文体の魅力になっている。

 『永瀬清子詩集』と「樹下の家族」を読み比べていて、永瀬清子と干刈あがたの台所についての描写のちがいに気がついた。

 

外で飲んだ方が救われるんだもの。台所の壁を見ながら、頭がぐらぐらしてくる時の感じ、たまらない。いつだったか、流しの下のポリ袋を何かがひっかいている音がすると思ったら、目の前をネズミが横切っていった。台所には微かに腐臭が漂い始めている。テレビやタンスの上に、うっすら埃がたまっている。母がくる日は、そんな形跡を拭っておく。夫が帰ってくる来ないは、仕事の進行と合わせてカンでわかる。本当の私を敏感に感じ取ってしまっているのは子供たちだ。 p81~82

 

わが詩の成る 束の間

わが愛する 束の間

まっくらな世帯場で

燃える炎をみつめている束の間

ほほづえついて自分の顔も金にそめて

お釜の中には

あすのお麦が煮立っているその束の間

天から降ってくるのか

炎といっしょに私が燃えるのか

踊りゆらめくリズムの早さ

おおおお

そのくれないの光の中に

私の冠が鋳られていた。

「束の間」(一九四八~一九六〇)

 

 永瀬清子の詩が、渾身の力を込めて思想化しようと真っ暗な世帯場で自分自身を凝視している姿だとしたら、干刈あがたの描写は、「微かな腐臭が漂っている台所」で放心するようにただ力なく途方に暮れ、少しづつ荒廃していく主婦の内部風景である。永瀬の詩の世帯場が確かな女の場所であり、詩人が全精力を傾けて対峙している緊張感が感じられるのにくらべ、干刈あがたの描写から感じられるのは、確かなはずの女の場所の解体に立ち会っている家庭の主婦の焦燥と脱力感である。このちがいは、家族という閉じられた共同性のなかで受け継がれてきた“母系的”な文化が社会へと開かれる以前と以後のちがいである。

 そして、もう少しつけ加えるならば、この二人のもうひとつ後の世代がとらえた“キッチン”の描写は、社会に開かれた家族=解体した家族を受け入れた世代の“台所”観であるということができる。

 

 私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。

 どこのでも、どんなでも、それが台所であれば食事をつくる場所であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使いこんであるといいと思う。乾いた清潔なふきんが何枚もあって白いタイルがぴかぴか輝く。ものすごくきたない台所だって、たまらなく好きだ。

 床に野菜くずがちらかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽くこせるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびついた包丁からふと目をあげると、窓の外には淋しく星が光る。

 私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。

 本当につかれはてた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時がきたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、だれかがいてあたたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所なら、いいなと思う。

吉本ばなな「キッチン」冒頭一九八七年

 

 吉本ばななの描写には、アジア的な家族を離脱した地点からもう一度解体した家族の姿をふりかえっている無意識の喪失感がある。あるいは解体した家族や台所の風景をふりかえった時の残像感のようなものが文体の背景にある。吉本ばななという作家は、ほんとうはたいへん重いテーマを担って登場した作家であり、干刈あがたの文学の系譜を継ぐ作家であると考えている。

 

 「樹下の家族」の終連近くは、六〇年安保闘争に参加した頃の自身のすがたや風景の描写が続いている。それは、干刈あがたにとって“出自としての南島”という自覚とともに、もう一人の自分の出発がそこにあったからであり、その風景の中に身をおいて自分自身をもう一度確かめたかったからであると思われる。

 

 一九六〇年、あなた(沖縄青年)が生まれた年。私は十七歳の高校生だった。六〇年安保闘争というのがあって、私は都立高校新聞部連盟、略称コーシンレンの人達と、六月に入ってからデモに参加するようになったの。

 初めての日は四谷駅の一時預けに学生鞄を預けて、清水谷公園に集合して、日比谷、銀座へとデモ行進した。その日は霧雨が降っていて、都道府県会館あたりのイチョウ並木の道を行進する間に、若葉の匂いを含んだ雨がセーラー服の肩にしみた。それが体温でむれて、体の匂いと一緒に立ち昇るの。私はその時はじめて男の子と腕を組んだから、自分の匂いが気になって仕方なかった。銀座のネオンを見たのもその時がはじめてだった。スクラムを組んだ日比谷高校の男の子が、シュプレヒコールの合い間に〈あれが日劇です〉とか〈右側が資生堂です〉と教えてくれたの。あんな美しい夜景をあれ以来見たことがない。それはあとから知った東京地図や、今見る町のアングルとぴったり重なるんだけど、まったく別の輝きにいろどられているの。

 デモはコース行進から、直接国会周辺に集結するようになっていった。高校生は大学生の列の一番端に並んだ。大学生のリーダーが〈諸君、高校生の若き力を拍手をもって迎えましょう〉と叫ぶと、大学生の群から拍手が湧き起こって、各大学の校旗が揺れた。赤旗が林立する中で、東大のスクールカラーの青旗(ブルーフラッグ) が眼にしみて美しかった。

p83~84

 

 思春期の最後をこのように通過した干刈あがたのその後を年譜でみると

 一九六二(昭37)年 一九歳

 四月、早稲田大学第一政経学部新聞学科入学。政治的傾向の強かった『早稲田大学新聞』とは異なる、学生の生活に密着した新聞をという意図のもとで作られた『早稲田キャンパス』の創刊に加わった。父との約束で、大学の学費を自分で捻出しなければならず、映画館のもぎりや自動車会社のカード整理など、様々なアルバイトに追われて授業にはほとんど出席できなかった。サルトル、ボーヴォワールを始めとするフランス実存主義の文学や、ヘミングウェイ、フォークナーの小説など、海外の文学作品を読む。この頃、村野四郎の詩の会にもぐりこみ詩を書いた。

与那覇恵子(干刈あがた年譜・著書目録)

 

とある。そして、その後コピーライターとしてOL生活を送り、六七年に結婚し会社を辞めてからも七〇年頃まで不定期に週刊誌のライターを引き受け、作詞なども手がけた、ということである。その後、

 

 乳の出ないことや、自然分娩ができなかったことは、自分がものを書いたりするために、新しい生命を育てるのに大切な何かが、子供の方に流れていかないからだと思うので、原稿用紙を捨てたということ。乳母車を押して駅前商店街へ行ったついでに本屋へ寄り、雑誌をパラパラ繰っていたら、半年前に出しておいた短編小説が載っていたが、もうその筆名は自分とは無縁に思えたこと。雑誌社に連絡して送ってもらった賞金で、つかまり立ちを始めた太郎にフェルトの靴を買ったこと。

p55~56

 

 このように、時代にも社会にも敏感で先鋭化された感受性をもったもう一人の干刈あがたは、長男の誕生(一九七一年)を境に断念され、内奥に沈められたのだと思われる。

 そして、時代の大転回によって袋小路へ追い込んでしまった自分自身を救抜するために、かつて断念したもう一人の自分を呼び覚ますことが必要だったのである。

 次のような無防備な“私”は、自力ではもはや袋小路から抜け出せないように思えるからである。

 

 子供がほんとに小さかった頃、子供を抱いて部屋の中にいると、私は自分が樹々の呼吸と一緒に息をし、地球の自転に乗って日のめぐりの中にいるようなが気しました。よせる波かえす波のような、単調で悠々とした繰りかえしの中にとけていた私には、ねじれの感じは無かったのです。

 そして私は、その奇妙な感じをうまく言葉で説明することが出来ません。男の言葉と女の言葉は違うのではないか、いやもしかしたら女にはもともと言葉が無いのではないかという気もするのです。子供が赤ちゃんだった頃、私はアァとかウゥとかの短い音声で、彼が何を訴えようとしているのかわかりました。原始人なども、会ったわけではないけれど、短い叫びで何かを伝え合いわかり合っていたようだし、母親と赤ちゃんの間で交す音声は世界共通だとも聞きました。私たちの今の常識では、アァウゥから言葉を持ち、文字という記号を使うことによって、遠くの人とも伝達可能になったというようなことが、人間の文化、進歩だということになっています。すごいことなのではないかとも思えるのです。そんなことを考えると、口ごもってしまいます。

p89~90

 

 “遠い時間の彼方”からやってくる視線が、赤ちゃんや原始人のアァウゥ言葉まで逆行(退行)し、同化して語られている。このような干刈あがたは、閉じられた家族のなかでなら、もう一人の自分を呼び覚ます必要もなく自足できたかもしれない。しかし、もう一人の自分が呼び覚まされたことによって、干刈あがたの内部では、あたかも古代以前と現在の両端から引き裂かれるような極端にアンバランスな振幅のなかで自分を保たなければならなくなったと考えられる。そして、その振幅とギャップの落差から生じる噴流はどこにも出口をみつけることができず、予感的に察知されていた決断の周囲をどうどう巡りするように、「美智子さん」という呼びかけの文章がくりかえされることになる。

 

 美智子さん――。

 もう一人のミチコである私は、頭を垂れて祈るかわりに、タバコを喫いながらあなたに語りかけます。私はあなたの列の後方に連なっていた時もそうであったように、個人的事情を理由に中途半端に、思考より自分の生理的感覚にひきずられながら生きてきました。ある時期からは、むしろ自分の個人的な事情や生理に忠実に生きようと思いました。

 大学を中退して会社に入った私は、毎日勤務が終わると、新宿のジャズ喫茶に入り浸り、言葉のない、体のリズムが感応するだけのジャズに耽溺していました。そのころ私は会社で柴田に会いました。

p87

 

 美智子さん、私は一人の妻としては夫を愛し、夫に寄り添っていきたい。夫もまた不器用ながらそれに応えてくれていると思います。でも、夫と私との間で何かが違っている。たしかに夫は特別に仕事の好きな人間だけれど、その背後に彼をとりこんんでいる巨大な現代社会というものを感じるのです。

 私はこのごろ体がだるくて仕方ありません。なんとか気持ちを引き立ててきちんとやろうと思っても、どうにもダメなのです。何かに必死につかまっている手を放してストンと墜落したら、どんなに楽だろうと思います。このままでは本当に自分もダメになり、子供もダメにしてしまいそうです。

P91

 

 「樹下の家族」は沖縄青年を小説の進行役に、永瀬清子の「木蔭の人」を隠れた水先案内人にして、作中の“夫”に“私”が〈おねがい、あなた、私を見て。私が欲しいのは、あなたなの〉という言葉を届けるというストーリーとして書き始められたと私は考えている。しかし、そのために自分の心の内奥にあるものを全てさらけ出して干刈あがたがみたものは、もっと危うくさびしい自分のすがたであったと思われる。

 最後は次のような呼びかけで終わっている。

 

 美智子さん、その朝〈今が大事なとき。今日は行かなければならない〉と言って出かけて行ったという美智子さん。私はどこへ行けばいいのでしょうか。

 いいえ、私にはわかっているのです。女は、私は、全身女になって〈お願い、あなた、私を見て。私が欲しいのは、あなたなの〉と叫べばいいのです。美智子さん、私の前にもう一度、そう叫ぶ知恵と勇気のブルー・フラッグをはためかせてください。」

最終連

 

 干刈あがたは「樹下の家族」を発表した一九八二年の暮れに離婚している。直接的な理由はわからないが、「樹下の家族」を執筆したことによって、決断できる場所へ立つことができたのだといえるかもしれない。

 進行役に“沖縄青年”が選ばれたのは、重要な意味があったと思われる。「私が昔、東支那海の島に生まれていれば、男たちの航海を守る姉妹神(おなりがみ) であったかもしれないなどと思いながら、この無垢な少年とドロップアウトしてしまえば、何か必死につかまっている手を放して、ストンと墜落できるか。」と作品の終り近くににあるように、干刈あがたが心の深層で向い合うべき相手を知っていたからであると思われる。

一九九六年二月二十五日