(三)「雲とブラウス」─二十二年遅れのラブレター

 

 “海燕新人文学賞”受賞から一年後の一九八三年十月に干刈あがたは、はじめての単行本『樹下の家族』を出版している。収録されている作品は

 

樹下の家族 「海燕」 一九八二年十一月号(第一回「海燕」新人文学賞当選作)
プラネタリウム 「海燕」 一九八三年二月号
真ん中迷子 書下ろし 一九八三年六月
雲とブラウス 書下ろし 一九八三年八月

 

である。「真ん中迷子」は自費出版された『ふりむんコレクション・島唄』のなかのいくつかの短篇をまとめて書き直したものである。作家・干刈あがたの幼少女期に刻印された原風景がここに表現されている。(詳しくは「干刈あがた再論五」)

 「雲とブラウス」は、住み込み先の鮨屋から姿をくらまして“雲みたいによ、軽く生きてみてえよな”という兄を、高三の私が“汗が噴き出て、制服のブラウスの下の胸の谷間に流し”ながら同級生の小林君といっしょに立ち廻り先を訪ね、探し出すという短篇である。単行本に収録されている他の三作がどちらかといえば“重く・内向的”な作品であるのに比べ、「雲とブラウス」では“兄”と“男友達・小林君”への自然なこだわりのない親和力が表現されている。干刈作品のなかでは目立たないが佳品であり、“兄と小林君”の描かれ方にはなにか干刈文学の秘密が見え隠れしていて、意想外に重要な作品かもしれないと思っている。

 干刈あがたは三九歳で作家デビューしている。それは抱えていたものがあまりにも重く、錯綜していて三九歳になるまで時間が必要であったからである。デビューが遅かった分だけ内部に貯え・溜まっていたものを、吐き出すように書き継いだのが、「裸」までではなかったかと思われる。書きたいものに順番があるわけではなく、ひとつを書き終えると次に書きたいものが立ち現れるように湧いてきたのではないだろうか。短篇「雲とブラウス」が書かれる引き金となったのは、「樹下の家族」の次の部分を干刈あがたが書いたことに因ると考えられる。

 

 一九六〇年、あなたが生まれた年。私は十七歳の高校生だった。六〇年安保闘争というのがあって、私は都立高校新聞部連盟、略称コーシンレンの人達と、六月に入ってからデモに参加するようになったの。以下56行。

「樹下の家族」最終連前

 

  このとき“呼び覚まされたもう一人の私”の出発がここにあるとしたら、「雲とブラウス」の主人公の“私”は、安保闘争後の夏の“私”の姿である。

  干刈あがたは「樹下の家族」のなかでくりかえし、この“もう一人の私”を抑圧し、閉ざしてきたことを告白している。

 

 自分の言葉を閉ざしてから、私は他人の言葉という汽車や暴れ馬に乗って旅をする楽しみを覚えた。

 

 乳がでないことや、自然分娩ができなかったことは、自分がものを書いたりするために、新しい生命を育てるのに大切な何かが、子供の方に流れていかないからだと思うので、原稿用紙を捨てたということ。乳母車を押して駅前商店街へ行ったついでに本屋へ寄り、雑誌をパラパラ繰っていたら、半年前に出しておいた短編小説が載っていたが、もうその筆名は自分とは無縁に思えたこと。雑誌社に連絡して送ってもらった賞金で、つかまり立ちを始めた太郎にフェルトの靴を買ったこと。

「樹下の家族」

 

 干刈あがたは「樹下の家族」を書いたことによって、自身の内奥にあった茫然自失したさびしい姿をのぞき見、かつて断念した“もう一人の私”を目覚めさせなければ、この時の人生の岐路を越えることができなかった。「雲とブラウス」には、“もう一人の私”を最初に断念した心象風景が描写されている。作者が“もしあの時自分で諦めてしまうようなことをしなければ、もっと違った人生があったかもしれない”と甘酸っぱく回想しながら書いているように読むことができる。私はくりかえし「雲とブラウス」を読んでいるうちに、これは書くことができなかった、告白することができなかった二二年遅いラブレターではないかと思うようになった。

 

 二人並んで西武新宿線駅の階段を下りた。改札口まで来ると、右と左に別れて通り抜け、また先で並んだ。「瀬を早み、だね」小林君が言った。

「雲とブラウス」冒頭

 

 この冒頭が、この作品の隠されたモチーフを暗示しているのではないかと、私には思えてしかたがないのである。これだけだと唐突すぎるかもしれないが、

 

       初陣の加持

 

わが十七の初陣に キリリと眉を吊り上げて

処女(むすめ)なり

さればこそ意気は弓なり 裸身一つ矢とつがえ 君が胸を射んとゆく

君十八の春の陣 ふるえる唇ひき結び

男(おのこ)なり

さればこそ討死もよし 白き胸に矢をたてて 朱の血潮に染まるなり

「ふりむんコレクションⅣ“ふりむん経文集“」

 

 この「初陣の加持」と「雲とブラウス」冒頭を重ねて考えることによって、作者の隠されたモチーフがひかえめで婉曲なベールの向こうに見えてこないだろうか。干刈は一月二五日生まれであり、それを過ぎると十八歳になる。また同級生の“小林君”が十八歳であることから、「初陣の加持」は高校三年生の初春に作られたと考えられる。つまり(推測に推測を重ねた末の推論かもしれないが)、「雲とブラウス」には“私と小林君”の出会いが描かれており、「初陣の加持」はその出会いが初恋(=初陣)へと高揚したことを示している。しかし、“初陣”は果たされることはなく、その後長らく“ふりむん経文集”に納められたままだったのである。

 「雲とブラウス」から作者の甘酸っぱい出会いがどんなものだったのか確認し、私の推論を少しでも根拠のあるものに近づけたいと思う。

 

 そのこと(古典の授業でのトンチンカンな解釈)があった後、小林君は私を落語部に勧誘した。その時彼は南亭骨太(なんていこった)という高座名を持つ、落語部の副部長だった。文化祭の時に、〈トリスでハワイ〉というCMをもじった〈都立で弱い〉という落ちのつく、高校野球を題材にした落語を演じて受けた。新聞部員だった私は落語部には入らず、三年生になってから二人はクラスも別れたが、私は新聞部の文芸欄担当として彼にコントを書いてもらっていた。

 

 これが高校二年生の“私”と“小林君”である。その後、三年生の夏休みへと描写はつづく。

 

 夏休みに入ったばかりの午前中の、進学希望者向けの補習に出ていた私は、就職希望者向けの速記講習に出ていた小林君と、帰りのバスの中で会ったのだった。

 映画見に行かないか。サンドラ・ディーの〈避暑地の出来事〉。

 今日はダメなの。兄を捜しに行くの。

 お兄さん、どうしたの。〈纏鮨〉にいるんじゃないの。

 私は小林君や新聞部の数人とデモに行くため、高校の近くにある、兄の昇の住込んでいる鮨屋の裏口に鞄を預けにいったことがあった。

 

 これが二人の出会いのはじまりである。

 

 女は、オレンジ色の液体の入ったコップをカウンターに置いた。粉末ジュース。エノケンがテレビCMソングをうたっている、〈ワタナベのジュースの素ですもう一杯〉というあれだった。

小林君は、いただきます、と言ってすぐ半分ほどを飲み干した。

「うまいです」

「そう、よかった」

 女はカウンターに立ったまま、煙草に火をつけて言った。

「あんた方、恋人」

「違います。友達です。今日は用心棒」

 小林君が答えた。彼は黒いスリップ姿の女を、まっすぐ見ていた。

 

「あんた方、恋人」と女が訊くセリフからは、甘酸っぱい匂いが発散している。

 

 「赤線と青線と、どう違うの」

 「女の人に会うと赤くなる男が行くのが赤線、青くなる男が行くのが青線」

 「ふうん」

 私は歩きながら考えていた。兄の昇はもしかしたらヤクザの仲間に入ったかもしれない。切断された指を見た時、思い出したことがあった。

・・・・・・中略(ここから四ページにわたる兄の“昇”についての長い詮索と述懐がある)

 汗が噴き出て、制服のブラウスの下の胸の谷間に流れた。私が考えている間、小林君はずっと黙っていた。

 

 この作品の一方のタイトルにもなっている、「制服のブラウスの・・・・」というとっておきの一行が配置されたことにより、二人の出会いは完成する。

 

 お弁当を鞄に納うと、私はもう一度、手帳の求人欄の切抜きと東京区分地図帖を取り出して、これから行ってみる店の場所の見当をつけた。

「電話番号が書いてあるお店には一応電話して、名前が違っていても年齢が近い人がはいったというお店と、電話番号が書いてないところを、書き出したのよ」

 小林君に言いながら私は、なぜ彼にこんな話をするのだろう、女友達どうしはよく家の話をするが、男友達に言うのは初めてだと思った。

 

 もうすでに“私”は小林君を射程にとらえている。

 

「僕、失礼するよ」また小林君が言った。

「どうぞ入ってください。こんなところですけど」

 昇はアグラをかき、タオルで顔や脇を拭きながら言った。私はそんな兄の姿を小林君に見られても、恥ずかしいとは思わなかった。むしろこのまま帰られるよりも、兄のことをよく知ってもらいたいような気がした。私は先に部屋に入り、鞄を提げて立ったまま「今日ずっと一緒につき合ってくれた小林君。あちこち捜し歩いたのよ」と昇に言い、「入ってちょうだい」と小林君に言った。そして鞄を置いて畳の上に座った。小林君は入口近くに膝をそろえて座った。

 

 ここには“もう一人の私”が小林君と真正面に向かい合っている姿がある。

 

 「小林君、こいつは」といって煙草で私を指さした。「そういう家の娘なんですよ。そういう家の娘として、ガキの頃からずいぶん苦労をしてきているんですよ。おまけに俺がこんなだから、俺のトバッチリまで受けましてね。俺はこいつが、いい男とめぐり会ってしあわせになるといいと思っているんですよ」

「はい」と小林君が釣り込まれたように返事をした。

 べつに結婚相手として紹介するために一緒に来たわけじゃないのにと、ちょっと自己陶酔ぎみの昇に水をさしたくなりながら、私は黙っていた。兄のためらう気持は私にもわかる。自分の結婚相手が親とつき合わねばならないことを考えると、その前にもう自分を諦めてしまうような気持を持っている。結婚しないで一生過ごすだろうと、いつごろからか思っていた。

 

 これが“もう一人の私”を断念しようとしたいちばん最初の心象風景である。しかしまだ、諦めようか諦めまいか漠然とした曖昧さが留保されている。

 

 トラックの助手席からジャンプして下りた小林君につづいて私も下りた。経堂駅前だった。

「今日はどうも有難う。ごめんなさい、半日つぶしちゃったわね」

「面白かったよ」

 私は思い切って言った。

「小林君には、自分が恥ずかしいこと知られても平気な気がしたの、変ね」

「今度、本当に映画見に行こうよ」

 私は頷いた。

「じゃ、明日学校で。さようなら」

「さようなら。ありがとう」

「雲とブラウス」

 

 干刈はこの後、“昇”に「小林君とどのへんまで行っているんだ。キスぐらいしたか」「やだなあ。すぐそういう言い方をする。そんなんじゃないわ」「そうかね。いいと思うよ。あの男」と言わせて、小林君の描写を終えている。

 干刈あがたの作品のなかで“兄“以外の異性に対し、このようなこだわりのない親和力が発せられた描写はないと思われる。「樹下の家族」を書き終え、自分自身を断念させてやってきた結婚生活にピリオドを打って、もう一度自分の人生を振り返ったとき、自分がほんとうに向かい合うべき相手として真っ先に思い浮かんだのが“小林君”だったのではないだろうか。

 干刈文学にとって、兄への親和力は際立った特質である。その兄への親和力を借りて、それを“小林君”へ重ねることによって、この「雲とブラウス」という二二年遅れのラブレターは成り立っている。たいへん切ない短篇である。

二〇〇五年十月十六日

 

 

 追記

 今年(二〇一一年)の一月、「窓の下の天の川」の舞台になっている“六つ目ハイツ”の取材のために東京へ行った。そしてその時、“小林君”のモデルであるH氏と高校の同級生の方たちにお会いして、さまざまなお話をうかがうことができた。ほんとうに興味尽きないお話をたくさん聞けて楽しかった。私の推測が当っていた所と、見事にはずれていた所がよくわかった。しかし、私の二二年遅れのラブレターという「雲とブラウス」論を訂正しなければならないような発見はなかったので、そのままとした。H氏と同級生の方たちとのお話のなかで、「雲とブラウス」を干刈あがたが執筆した動機のようなものを知ることができたので、それを追記としたい。

 「雲とブラウス」の設定では、“私”と“小林君”は二年生の時クラスが一緒で、三年生では別々のクラスになったとあるが、干刈もH氏も高三の時は理系の進学クラスであった。共に現役合格はかなわず、浪人している。この時同じく受験に失敗し一浪した仲間に、干刈のいくつかの作品にも登場する長野の医大に進学したSさんがいる。H氏は三年生の時は、もちろん干刈とも親しかったが、どちらかというとSさんに淡い恋心を抱いていたということである。Sさんが一浪して長野の医大に出発するのを、同級生の仲間が見送りすることにした時、干刈は電話で、H氏に駅に見送りに行くように強い口調で促したということである。SさんもどうしてH氏が見送りに来ているのか、怪訝に思ったそうである。H氏に恋心を抱いていた干刈には、H氏がSさんに気があることがわかっていたのでだと思われる。その後大学生になったH氏と干刈はいっしょに映画を見たり、よく都内を歩いたそうである。「雲とブラウス」は干刈の切ない失恋体験ともいえない淡い恋心の思い出を作品のベースにしたものだったといえるかもしれない。

二〇一一年五月六日