(七)「ゆっくり東京女子マラソン」―社会へと開かれた八十年代の等身大の母親像
「ゆっくり東京女子マラソン」は、一九八四年『海燕』五月号に「月曜日の兄弟たち(『海燕』二月号)」の次に発表された作品である。(『文学界』の同じ五月号に「入江の宴」を発表している。)小学四年生のPTA役員に選ばれた母親たちが主人公である。一から十六までの段落で構成されており、作者と思われる母親も含めてそれぞれの母親たちを段落ごとに主人公にして描いている。干刈あがたはデビューしてから主人公を“私”にした文体で書いてきたが、ここでは主人公の母親たちに自分を同化させながら、八十年代の等身大の母親像を家庭の内側から鮮やかに描き出している。主人公を複数にした手法は次年の「しずかにわたすこがねのゆびわ」に先行するものである。前作「月曜日の兄弟たち」が準備を整え、力を込めた意欲作だとしたら、「ゆっくり東京女子マラソン」は肩の力を抜いて、子供たちや学校の教師像を織り交ぜながら、家族の中核を担っている母親たちの多様なそれぞれの立姿を、干刈あがたが共感をもって描いた初期の代表作である。「入江の宴」とともに第九一回芥川賞候補となった作品である。
この作品の設定は、“第二回東京女子マラソン”ということから一九八〇年三月~八一年三月である。(ただし作者と思われる“結城明子”の一九七二年生れの次男・伸二君が四年生であるとすると作品設定は一九八二年となる。)この作品の“吉野ミドリ”のモデルになっている新堀克子さん談によると、干刈はPTA役員を「母子家庭ですので」と消え入るような声でうつむいて断ったということである。離婚後の八三年頃のことだと思われるので、作品のなかの設定は八〇年~八三年頃と幅がある。
「ゆっくり東京女子マラソン」は、干刈あがたの日常身辺に起こった出来事をヒントに創作されたリアルタイムの主婦たちの物語である。
➀「樹下の家族」に出ている“自殺した次郎の同級生の母親”
「樹下の家族」以後の作品には、どれもなんらかの形で「樹下の家族」の作中の部分と重複しているところがある。三部作である「プラネタリウム」「ウホッホ探検隊」はもちろんであるが、「雲とブラウス」、「真ん中迷子」「月曜日の兄弟たち」「予習時間」にも「樹下の家族」の部分と重なっている箇所を見つけることができる。
「ゆっくり東京女子マラソン」の場合は“結城明子と二人の息子”という設定のほかに気になる重複箇所がある。
“樹下の家族”
〈このごろ指をよくケガするの。包丁で切ったり、アイスピックでうっかり突いたり昨日は外出して家に帰る時、切符売場でどうしても駅を思い出せなかった。頭の中が真っ白になって、しばらくぼんやり立っていたの〉
ノイローゼで入院する前に電話をかけてきて訴えた、旅行添乗員の妻のU子。
だんだん、だんだん肥ってきて、表情が虚ろになってきた、流行作詞家の奥さん。ある日私は、彼女が駅前の商店街の菓子屋の店先で、つと、袋菓子を買物袋に入れるのを見た。
一流総合商社の課長の夫と、自閉症児の子の間で精神安定剤をのみ続けているS子。
二人の子供を残して自殺した、次郎の同級生の母親。
この「自殺した次郎の同級生の母親」とは、“ゆっくり東京女子マラソン”の段落一、二に登場する湯元典子の母親と同じ人物であると思われる。私は今回“ゆっくり東京女子マラソン”を読み直して思ったことは、確かに“結城明子”が作品設定から作者だと考えられるし、そのように描かれている。しかし、自殺した湯元典子の母親も心臓に持病を抱えている佐久間満子も、同じく作者の分身であるように思われた。
ひとりでふらりこの世から
いちぬけたすることもできなくなった
「親が子を守る」
いいえ
子が私の命をつかまえていてくれる
小さな太郎の手
もっと小さな次郎の手
手をつないで夜道を歩きながら
オリオンの星をおしえる
星を見れば流れ星を思う私という
あやうい母親をもったお前たちのふこう
太郎と次郎はふざけて
私の手をふりほどきかくれんぼう太郎ちゃんがいなくなったよー
次郎ちゃんがいなくなったよー
子をとろにとられちゃったよー
だいじょうぶだよ
ここにいるんだよ
とお前たちはとびだしてくるけれど
(お母さんがいなくなったよー)
“子をとろ親とろ子ぼんのう親ぼんのう”後半部分
「ふりむんコレクション」のなかのこの詩の母親と、自殺した湯元典子の母親はほとんど同じ場所に佇んでいる。そして段落二の湯元典子の母親の自殺を知ったあとの“佐久間満子”の次のような独白は、幸いにも自殺しなかった「ふりむんコレクション」のなかの“私”の独白だったといってもいいのではないだろうか。
残された典子ちゃんはどんな思いで母親を見ただろう。その姿が萌子に重なる。p137
でもお願いです。あの子がもう少し大きくなるまで私を生かしておいてください。私は母親です。
もう何度そんなふうにお願いしたことだろう。蒲団の中で幼い指で母親の指を握りしめ眠っている、生まれたばかりの萌子の光を含んでぽやぽやと浮いている髪、血の色を透かした耳たぶ、眠りの中でも乳房を求めているようにつぼめている唇などを見つめながら。木もれ陽の中をつんのめるように走って行く幼い後姿を見ながら、カメラに向って「イエイ!」とお転婆なポーズを取る姿をファインダーの中にのぞきながら。思いがけず自分が心臓弁膜症であることを知り、病院からの帰りのタクシーの中から灰色の街を見た日のことを思い出せば、光と色に満ちた萌子のいる風景そのものが恵みであるのに、もう少しもう少しとお願いするのは何と欲張りなのだろうとおもうけれど。p138
衣装の出し入れをするたびに、また一季節生きられたと思う。萌子が母親になる頃、私はもう生きていないかもしれない。p140
もし私が死んだら、後に残った夫と萌子はどんなふうに暮らしていくのだろう、やはりもう少し生きていたいと思う。p141
「ゆっくり東京女子マラソン」
詩と散文の違いがあるだけで、「ふりむん経文集」のなかの“子守り呆け経”“子をとろ親とろ子ぼんのう親ぼんのう”の詩で表現されているものと同じである。
また“佐久間満子”が“萌子”に出産時を回想しながら話す箇所は、「樹下の家族」の“私”が出産時を回想している箇所と重なっている。
「私は海の底に沈んでいたの。ずっと上の方に水平線があって、その上には空気がある。私は水平線まで上ろうとしてもがくのに、体は少しも動かない。ああ私は今、死につつあるんだなとわかった。しーんとしていて、とても寂しいんだけど、なんともいえず広々とした安らかな気持ちなの。その安らかな気持ちというのは、ピンと張った糸で、水平線上のわーんという響きと繋がっているの。
「樹下の家族」p35
「お母さんは全身麻酔だったから、意識がなかったのよ。でも萌子が生まれた瞬間の産ぶ声は聞こえたわ。お母さんは深い深い海の底に沈んでいたんだけど、ずーっと上の水面の上でわーんと響いていた。お母さんはそれを聞きながら、ああこれで死んでもいいんだなあと、とても安らかな気持ちだった。ふしぎねえ」
「ゆっくり東京女子マラソン」p232
“樹下の家族”では、「二人の子供を残して自殺した、次郎の同級生の母親」とたった一行しか書かれていなかったから分からなかったが、このとき干刈あがたは相当な衝撃を受けたのではないだろうか。そして、このときの衝撃を鎮静させ、また自分だったかもしれない“同級生の母親”の死を鎮魂することを、干刈あがたはどこかでする必要があった。「ゆっくり東京女子マラソン」の段落一,二からは、そんな作者の想いを読み取ることができる。段落一の“湯元典子の母親”の描写、段落二の佐久間満子の独白には、「ゆっくり東京女子マラソン」という作品の進行に重ねて、干刈あがたの内奥に秘められていた言葉が発せられている、というような奇妙な迫力とリアリティーがある。
➁「ゆっくり東京女子マラソン」の四人の母親像
「干刈あがたの文学世界」のなかに新堀克子さんが“干刈あがたこと浅井和枝さんとの思い出”という一文を寄せられている。それを読むと“吉野ミドリ”にはモデルとなった母親がいたことを知ることができる。そしてもう少し正確に言うとすれば、“吉野ミドリ”という母親像は、モデルとなった母親と干刈あがたが仕事をやめ、主婦になり、母親になった頃の自分が重ねられて造形されているといえるのではないだろうか。
今の私は時間に追われているわけではないと、ミドリは二郎が蟻に飽きるのを待ちながら、何度も洗い晒したGパンの膝のような薄い灰色の空を見上げて深呼吸した。一つのことに熱中した子供が飽きるのを待つには、気の遠くなるような忍耐力がいるが、一緒になって楽しめば、それは実に楽しい時間なのだとミドリは三番目の子である二郎を育てながら初めて知った。
「ゆっくり東京女子マラソン」p163
これは、たぶん干刈あがた自身が子供を育てながら実感したことであり、“生理の出血の話”“少年野球の女の子”“グランドの予約”などは新堀さんの体験談が種になっている。“吉野ミドリ”は共働きをしながら子育てをしている新しい母親がモデルになっている。
「ゆっくり東京女子マラソン」は四人のPTA役員の母親が主人公である。校外委員の“吉野ミドリ”、作者自身がモデルである広報委員の“結城明子”、心臓病を抱えている厚生委員の“佐久間満子”、そして学年委員の“大里洋子”である。四人四様であるが四人の母親像の中核的な母親像は“大里洋子”である。表題になっている“ゆっくり東京女子マラソン”を走る女子ランナーの「短い脚。ガニ股。お尻はドテッと落ちている。きっと、くるぶしなんか坐りダコがぐりぐりしているわよ。重い荷物を背負ってきた日本の女性の歴史を体現している肉体なのよ。男たちはどうしてこの体の美しさ、哀しさ、いとしさがわからないんだろう。」という日本女性像を正統的に受け継いでいるのが“大里洋子”である。“大里洋子”は次のように造形されている。
拍手が起り、三番目の名が書かれた。いよいよ順番がまわってくる、何と言って断ろうかと大里洋子は掌に脂汗をにじませた。本当に、こういうのって苦手だ、欠席すればよかった。
「はい、あの」名指された洋子は小さな声で言った。「うちの姑は、私が外に出ること、あまり喜ばないんです。幼稚園に行ってる子もいますし」 p134
舅と夫のものを先に洗濯機に入れて回しながら、風呂に入った。三年前までは姑は決して自分や自分の夫のものを嫁に洗わせるようなことはなかったが、このごろは血圧が不安定だったり、膝に水がたまって歩行や正座が不自由になったりで、嫁に任せる部分が多くなってきた。洋子は二年ごとに三人の子を産んだので、六年間オムツを洗いつづけた。それが一段落すると、今度はまた別の洗濯が始まるのだなと思いながら、洋子はぬか袋で肌をこすった。女はいつまでも旦那さまに可愛がられるように肌をきれいに、これを使いなさいと姑から教えられたことだった。
夜のうちに洗濯をして、朝陽に干すこと。それも姑から教えられたことの一つだ。朝、子供たちが学校へ行ってから洗濯しては、干すのが九時十時になってしまう。冬は陽がかげるのが早いから、一日では乾かないこともある。夜自分が風呂に入る前に洗濯機を回せば、朝陽が無駄にならないと。口うるさいかわりに、全自動洗濯機とか便利そうなものは買うようにすすめる。旦那さまが何時に帰ってきても温かい食事を、という姑は、電子レンジを誰よりも早く買って取り付けさせた。無料の朝陽を無駄にしないために、水を多く使う全自動洗濯機を使うのが損か得かはわからないが、洋子は教えられたとおりにやってきた。 p144
「途中で何度もやめたいと思ったのよ。正直なところ、もう二度としたくないわ。姑がいつも言うのよ。女は家の中で身近な者と平穏に暮らしているのが一番しあわせだと。本当にそう思うわ」
「ゆっくり東京女子マラソン」p238
このような“大里洋子“がPTA役員を引き受け、四人の母親たちと奮闘することによって意想外の実力を発揮するのである。というより、この四人の主人公たちは、一世代前までいづれも“大里洋子”と同じく家の中にいた“日本女性”だったのである。この四人の女性たちを第一世代として、これまで強固に閉じられてきた日本の家族が社会に向って開き始めたのである(拙論“家族論への試み”)。「ゆっくり東京女子マラソン」で描かれている母親像・女性像は、これまで長らく母系的な日本家族の中核を担ってきた母親たちが、八十年代に入って社会へ開かれるように自己解体していった時の瞬間の姿がとらえられている。
段落十五の五人の母親がおでん鍋を囲んで慰労会をする場面での「本当は私ね、二年前まで仕事をしてたでしょう、内心で家にいる女の人を少し馬鹿にしてたの。朝からテレビを見て、井戸端会議にうつつをぬかしてって。でも今は違うわ。女の最も良質な部分は、家の中にいる女たちの中にあるんじゃないかと思っている。外で男の人と対等にいい仕事をしている女が、女の場所を切り拓いているのは誰の眼にもわかりやすいけど、家の中から切り拓いている女たちもいるんだって分かったわ」というセリフこそ、この作品のテーマであり、長らく社会から閉じるように保持されてきた日本家族が社会へと開かれ、八十年代の束の間の一瞬にだけ垣間見ることができた“家の中”の女たちの立ち姿だったのである。これ以後、日本家族は解体し、“大里洋子”のような母親像を二度と創出することができなかった。
二〇〇六年五月十四日
※諸般の事情により画像を省略しました[ HP管理人 ]
東京で初女子マラソン 1979(昭和54)年11月18日、女子単独の大会として世界で初めて国際陸連に公認された「第1回東京国際女子マラソン」が開催。英国のジョイス・スミス(左)が優勝、日本勢は村本みのるの7位が最高だった。交通規制が困難なことから2008年の第30回で終了、今年から横浜国際女子マラソンとしてあらたなスタートを切った。