(九)「幾何学街の四日月」━はじめての“私”の情事を描いた作品
「幾何学街の四日月」は、大人の男と女あるいは成熟した男と女をどう書くかという、干刈あがたの作家としての課題を自覚しながら、探りながら試験的に書いた作品である。この年(八三年)に「月曜日の兄弟たち」と「ゆっくり東京女子マラソン」という二つの作家としての意欲的な中篇を書き、思いがけず「入江の宴」まで高い評価を得たことによって、作家としての自信めいたものと余裕のようなものがあったのかもしれない。ボクシングに例えればちょっとジャブを出して反応を確かめるように、離婚後の“私”の男と女の情事の場面が「幾何学街の四日月」では描かれることになる。
「幾何学街の四日月」は、“私”も含めて後に執筆される「ウォークinチャコールグレイ」の登場人物と重なっているところがある。「幾何学街の四日月」に登場する大学時代の仲間は“プラグマ氏”と“哲理氏”だけであり、「ウォークinチャコールグレイ」に登場する何人かの人物像がダブって造形されている。それでも登場人物の二人がだれとだれに対応しているか、言い当てることができる。
干刈あがたが「ウッホホ探検隊」を執筆して自覚したことは、離婚した元妻としては“私は男の人を深く愛せない人間ではないのか、冷たい女なのではないか”ということであり、作家としては離婚後の“母子の情景”はかなり自在に描くことはできるが、離婚後の“私の女の部分”がさっぱり書けないということであった。それは「月曜日の兄弟たち」や「ゆっくり東京女子マラソン」を執筆していた時も頭の片隅から離れずあったと思われる。
私は階段口を離れると走った。幾つも幾つもの棟の間を駆け抜けた。2DKまで駆けつづけた。2DKの洗面台で私は何度も何度も西田明男のものと違う体臭や唇の感触を拭い去ろうと、口中をすすぎ顔と唇に石鹸をつけてこすった。それから、富田に嫌悪を感じていない自分の眼を、鏡の中に覗き込んだ。
「月曜日の兄弟たち」p119
ここに登場する“西田明男”も「ウォークinチャコールグレイ」に描かれた大学新聞を創刊した仲間である。“西田明男”は、「月曜日の兄弟たち」では脇役のそのまた脇役ぐらいでちらっと中頃に登場シーンがあるだけであるが、後半の“富田と私”のクライマックスの場面で、たいへん唐突に再登場することになる。ここではただ“富田”の引立て役として強引に引っ張り出されている。あるいはこの時の“私”を、初心な娘ではなく、少しくらいは男性経験のある女学生として設定したかったという理由から再登場することになったのかもしれない。しかし、この西田明男の“再登場”の背景には、次年に執筆される「裸」への無意識の伏線、つまり成熟した男と女の物語を描きたいという作家・干刈あがたの強い欲求が無意識の伏線としてあり、それがここでは、西田の突然の登場と唐突な設定となって表出しているのではないかと私は考えている。
この“西田明男の再登場”を作家・干刈あがたの無意識の伏線としてとらえると、「ゆっくり東京女子マラソン」の“結城明子”の次の場面も同じことが指摘できる。
明子の仕事机の上の電話が鳴った。受話器を取って相手の声を聞きながら、明子は誰もいないはずの背後をもう一度ふり返った。そして低い声で言った。
「私が出られる時にこちらから電話する、そちらもOKなら会う。そういうのが嫌なら、もうやめるわ」
電話を切ると明子はまた仕事机に向った。二十代で離婚した仕事仲間の一人は、離婚した女は性に飢えているはずだという周囲の男たちの眼と、自身も一人でいる不安に耐えられず、身近にいた保護者のような男友達と結婚して心身が安定したと言っていた。明子は十四年の結婚生活から離婚して日が浅いせいか、生理的なものか、一人でいる爽やかさの方が今の気持に合っていた。周囲の男たちの言葉も受け流すことができる。離婚してから初めての経験であり、まだ何度も会っていない電話の相手にもあまり執着していないような自分が、今度こちらから電話してこちらの身勝手さを拒否された時、本当に動揺しないでいられるだろうかと思いながら明子は仕事を続けた。「ゆっくり東京女子マラソン」p242
ここでは“西田明男”ほど唐突でも過剰でもないが、自分自身がモデルである“結城明子”にこのような告白をさせることは、作家の強い作為が感じられる。引用した“結城明子”の離婚後の「電話の相手にもあまり執着していないような」という恋愛のスタンスは、「樹下の家族」から「ウッホホ探検隊」にいたるまでの「仕事を持っていたのがいけなかったのかもしれないわ。夫のことを疎かにしてしまったし。いや私がもともと人と一緒にやっていけない人間だったんだと思う(幾何学街の四日月p264)」という“私”の元夫に対するスタンスと同じであり、この作品における“プラグマ氏”との情事のスタンスとも同じである。
作家・干刈あがたは以上の準備の下に離婚後はじめての“私”の情事の作品を描くことになる。このような恋人に対して冷めたスタンスで情事の作品を描くために作者がとった方法は、大学時代の私を含めた三人の記憶を過去の亡霊として登場させ、情事の相手である哲理氏やプラグマ氏の現在の姿とダブらせ、それらを都市の風景の中に嵌め込んで描写することであったと思われる。そのような意図を作者は作品のなかで吐露している。
母親の男友達がたまに家へ来て、夕食を一緒にして帰る、などということを父親が聞いたら、輝を手元に引き取るというかもしれない。その時、今の世間の定説は父親に味方するだろう。
その時も、ヘルメットを被って時雄と一緒に天ぷらを揚げたりしている輝の心が決めることだ。
風景も人間も、在るものは変る、在るものは失くなることがある、と思えてしまった。その中で生きる覚悟をもってしまった。「幾何学街の四日月」p271
「風景も人間も、在るものは変る」、つまり離婚した女の情事を風景が変るように叙景的に描写することができないか、ということがこの作品の方法論ではないだろうか。
「幾何学街の四日月」は四つの大きな段落で構成されている。
1 “私と哲理氏”が月齢・四日月に約束の場所で会うまでの導入部 | ─(起) 七九行 |
2 プラグマ氏の葬儀と“哲理氏”との再会 | ─(承) 百十四行 |
3 情事の前の食事と会話 | ─(転) 二〇一行 |
4 真夜中の情事と明け方の別れ | ─(結) 二〇四行 |
作品はもう少し味付けされているが、「月曜日の兄弟たち」の高揚感もなければ、「ゆっくり東京女子マラソン」のような力を抜いた自然さもない。本文のストーリーの平板さを補うように“空気屋本舗(八三行)”や“離婚後の私と息子の情景(四八行)”の独立した長い一節が挿入され、それらの方が本文より生きいきと描かれている印象を受ける。本文には男と女の情事の物語であるにもかかわらず、なによりも熱い想いも切なさも描かれていない。
特に結びを次のような長い不吉な叙景描写で終えていることは、作者の強い作為を感じないわけにはいかない。
ホテルを出ると路地はまだ暗いが、空はぼんやりと白みかけていた。ところどころに見えるネオンも色が薄くなっているように見える。方角がわからないままに私は歩き出した。まだ歌声の漏れている店の前を通り過ぎたり、石段を下りたり、行き止りの路地を引き返したりした。眼の前を黒いものが横切った。猫だった。
中略
私は教会通りのゆるやかな坂を、すり鉢の底に向って歩いて行った。白っぽいシャッターの前にガラス張りの電話ボックスがある。その陰から人影のようなものがふらふらと出てきた。子供が悪戯している操り人形のように人影は手足をばらばらに動かしていたが、突然糸が切れたようにぐにゃりと縮んだ。私はその場所に近づいていった。浮浪者だった。
中略
広場の真ん中を横断歩道を無視してさっきの浮浪者が歩いて行く。別の通りから出てきたもう一人の浮浪者が同じ方向に歩いて行く。高速道路のガード下の方へ向っているのだ。角の黄色い豆電球の満艦飾のゲームセンターは扉を閉ざしているが、電球は点ったままだ。フライドチキン屋の番人のような叔父さん人形は姿を消し、明りも点っていない。二人が向っている方へ私も少しずつ近づいて行った。二人の暗い影はガード下の道に消えた。私がその道の奥が見える場所まで来た時、頭上で風が何かを叩くような音がした。私は眼を上げた。翼を羽撃かせて黒い鳥が私を襲ってくる、と恐怖に立ちすくんだ瞬間、影は私の頭上を横切ってフライドチキン屋の裏の方へ舞い下りていった。「幾何学街の四日月」結びp277
この不吉とも思える結びは、大学時代の三人の記憶を過去の亡霊として呼び出したことと対応しているかもしれない。あるいは男と女の情事を都市の叙景描写の中の一つとして描こうとした作者の試みの結果だったかもしれない。しかし情事の後の文章としては最悪である。それではなぜこのような結びを作者は書いたのだろうか。
結びの長い叙景描写の前に次のような数行が置かれている。
〈次の四日月の夕、日没時刻、樹の坂の上と下から。もしまだ私に会う気持があれば〉
手帳の頁を切ってテーブルの腕時計の下に置く時、鎮静した蠍座の闇の中に白く浮いて見えるものが眼に映った。白いシャツ。私は胸を衝かれた。ああ、かつて誰かが私にしたことを、今の私が誰かにしている。過去の自分をどんどん忘れている。私はどんどん変っていると。私はしばらくの間、赤光に浮び上り闇に沈む哲理氏を見ていた。それから紙片を取り、丸めてポケットに入れた。だが次の四日月の夕、日没時刻に樹の坂の下から歩きはじめてみようと思いながら。「幾何学街の四日月」p275
男と女の情事を描くということは、最終的には男・女・女あるいは男・男・女の抜き差しならない三つ巴の三角関係を如何に書き切るかに尽きる。ここで「かつて誰かが私にしたことを、今の私が誰かにしている」と書いた時、干刈あがたはその入口に立ったのである。そしてそのことに気がついたことによって「幾何学街の四日月」をあえて失敗作として終える覚悟でこのような不吉な結びを書いたのではないだろうか。
二〇〇六年十二月八日