(八)「入江の宴」は“暗い唄の旅”の中の「私」へのレクイエム

 

 「入江の宴」と『ふりむんコレクション・島唄』のなかの“暗い唄の旅”の文体の相異について考えていた時、“沖永良部島ツアー報告特集”のコスモス会通信六号が送られてきた。さらに毛利さんから、現地で交流会をされた沖永良部郷土研究会の会報・“えらぶせりよさ三四号(干刈あがた特集)”も送っていただいた。そのなかで私は初めて干刈あがたの父親・柳納富氏の写真を見ることができた。まちがいなく干刈は父親似であった。

 今年の“第一四回コスモス忌”は九月一〇日に催され、七回忌のとき以来、久しぶりに出席した。そして、私の「干刈あがた再論」のこれまでの成果を、出席された皆さんの前で少しだけ発表することができた。干刈あがたが亡くなって一四年が経ち、これまでさまざまな作家、友人、批評家、研究者たちが彼女の作品について、あるいは作家について語り、書き、発表してきた。それらはある作品についての作品論や解説であったり、作家の一面をとりあげた印象記や思い出であったりとさまざまである。しかし、どうしてかこれまで干刈あがたという作家あるいは作品について本格的に論じたものがなかった。たぶんもうこれからも出ないだろう。そう思った時、私は「干刈あがた再論」を書いてみたくなった。“再論”を書くよう薦めてくれた大阪の小山洋一氏(二人だけの関西・干刈あがた会の会長)とコスモス会事務局の毛利悦子さんのお二人に読んでもらえることを願って書きはじめ、これからもこのお二人に向って、書いていこうと考えている。

 「入江の宴」は一九八四年『文学界』五月号に、『海燕』五月号の「ゆっくり東京女子マラソン」と同月に発表された作品である。「入江の宴」は『ふりむんコレクション・島唄』のなかの“暗い唄の旅”ほか数篇を下敷きにして書き直されたものである。単行本『樹下の家族』」に書下された「真ん中迷子」が同じ手法によって書かれている。出版社からの作品要請に応えるためもあったかもしれないが、書き直された両作品とも干刈あがたが作家として立とうとした時に、避けて通ることのできない核心部分が秘されていたからだと考えられる。

 沖永良部島行き直前の干刈あがたは、少女期からの柳和枝の内部の鬱屈はいまだ出口が見つからないまま内圧を高め、危機的な状況へ飛躍する寸前であったと思われる。この若く危うかった自身の姿を鎮魂し慰撫する気持ちを込めて、作家・干刈あがたからの視線で“暗い唄の旅”を書き直したのが、「入江の宴」である。

 「入江の宴」は、『ふりむんコレクション・島唄』のなかの“暗い唄の旅”“頭蓋骨”“神下り”をつなげて加筆した前半部と“暗川”“珊瑚礁”“島唄”の一部だけを織り交ぜ大幅に補筆した後半部に分けることができる。
内訳は

 

入江の宴 前半部396行 暗い唄の旅 202行 頭蓋骨 22行 神下り 21行 小計263行
     後半部426行 暗川     29行 珊瑚礁 15行 島唄  21行 小計 65行


       

         
ということになる。前半部全396行中約234行が“暗い唄の旅”、“頭蓋骨”、“神下り”からの引用である。

“暗い唄の旅”は文脈的には、ほぼ全文が使用されているが、『ふりむんコレクション・島唄』を自費出版した時に父・柳納富から強くクレームがついたと思われる箇所が省かれている。それは次ような箇所である。

そこは共同墓地なのだった。花入れの竹筒は朽ちていたが、時々は自家の墓に来た人が残りの花を供えるらしく、それが萎れているのがかえって打ち棄てられた感じがする。ここに墓を持つような家の人々は、早くに島を出てしまっているのだった。父の一族ももう誰もいない。

p251

 私は、いつだったか母が父とのいさかいの後で、父に聞こえないように「猫家(みゃんか)の・・・・・・」とつぶやくのを聞いたことがある。猫の家という家号を持たなければならなかったほどの貧しい家。父は何故、島を出てしまったからには、自分の出自を知らない他国者と結婚しなかったのだろう。十四歳で島を出た父は二十年後に、同じ村落の地主の娘である母を妻に望んだ。そしてそれからさらに二十数年経た今まで、まだ島に帰ったことがない。ある時期までは、東京に出て行くことに集中し、その後は東京に土地と家を持つことに魂を傾け、その次は墓に集中した。そしてこのごろは、島に帰る時は莫大な寄付をしなければならないと言う。人間を駆り立てるものの不思議な仕組み。

p252


 これらの引用されなかった箇所は、父への配慮からというより、二十歳の自分自身を鎮魂・慰撫するために書き直された「入江の宴」の文体にそぐわなく、必要なくなったからだと考えられる。一人称の「私」で書かれた“暗い唄の旅”は、幼少女期から絶えず内部の奥深いところで自身を不安にさせていたものが何だったのか探しあて、自らの出自を確認するために書かれた文章である。そのためには、自分を、家族をすべてさらけ出し、一行一行心の奥底を探り、分け入るように書き進めることが必要であった。そしてその文体は、ただ“旅”の行き先を確認するためだけに必要な、一人称独白体の簡潔な文体が採用されている。

 「入江の宴」は、三人称の「ユリ」がはじめて父母の故郷である沖永良部島を訪ねる設定になっている。“暗い唄の旅”では「私は二十歳で初めて島へ行くことになっても気が進まなかった。父母の故郷を見ないですむならその方がよいような気がしていた。けれど、病気治療に上京していた母の姉を島へ送り届ける者としては、夏休み中の学生である私しかいなかった。」とあるように伯母を送り届けるための沖永良部島行きであった。この設定の違いが、「入江の宴」の文体を規定している。比喩的に言えば、「入江の宴」は“暗い唄の旅”のなかの二十歳の私を「ユリ」と呼ぶことによって、危機的な危うさのなかでもがき苦しんでいた若かった「私」を、作家・干刈あがたの視線でもう一度見つめ直し、慰撫して、救抜しようとした文体である。したがって、“暗い唄の旅”の時には文体とモチーフにそぐわなくて排除されていた感傷的な独白や描写が、「入江の宴」では慰撫する気持ちを込めてきめ細かく赤裸々に補筆されている。

 
 

 種伯母は桟橋でユリの手を取って泣いた。裸足で畑を歩くことから感染したワイル氏病の治療をするために、半年ほどユリの家に滞在していた種は、暗い眼をした中学生のユリが神経質に指先を噛み、皮膚が赤くただれ、風呂に入ると気味の悪い白い斑になっていたのを知っているので、まずユリの指先を見て、直っているのを確かめてから泣いたのだった。

p56

 墓石の前で掌を合わせた時も、頭蓋骨を見ている今も、血とか命とか自分につながる何かをいとおしむ湿った感情が湧かない自分は、もう骸骨のように固く乾いて死んでいるのかもしれないと思いながら、ユリは偽の眼を見つめた。

p57

 種伯母が東京に来ていた時よく「三人兄弟の中で、なぜユリちゃんだけをこんなに」と、いつもおどおどして指先を噛んでいるユリを見て泣いていたが、男である兄には父も強くは当らず、妹はまだ幼くて、ちょうど中学生で感じ易くすぐ涙ぐんでしまう自分に、父親の苛立ちが向い易かったのかもしれない。その頃じりじりと焼かれていたような自分の心が、壊死してしまっているような気がすることがあるが、もう自分で逃げることも撥ね返すこともできるはずの年齢になってもまだ、家に圧迫されている自分は幼いかもしれないと、ユリは感じていた。

p71


 ここには、ほんとうに危うかった二十歳の「私」を真正面に見すえて、心騒ぐことなく静かに振り返っている作者の姿がある。“暗い唄の旅”では書くことができなかった当時の危機的な心象風景が吐露されている。

 後半部は『ふりむんコレクション・島唄』のなかの“暗川”“島唄゛“珊瑚礁”を織り交ぜながら書き直した三つの段落と後半部のため書下された一つの段落の四つが、それぞれ起承転結に割り当てられて構成されている。前半部が“暗い唄の旅”の文脈をなぞり書き直された「ユリ」の出自を確認する物語であるとしたら、後半部は「ユリ」の擬似的な“死と再生”の物語であるということができる。

“暗川”へ水汲みに入って水遊びをする導入部が“起”。

“島唄”が引用されている“承”。ここでは作者が“暗い唄の旅”を書かなければならなかった動機の核心が告白されている。

 
 

 ユリは東京で帰りの九州周遊券と、鹿児島と熊本と博多のユースホステルの宿泊申込みに行った時、もしかしたらそれは無駄になるかもしれないという気がしたことを思い出していた。夜行〈銀河〉の窓から、もう二度とこの灯を見ることはないかもしれないと思いながら、東京の灯を見ていた。もし旅の途中で自分が消えてしまったら、この家の人たちはどんなに心を痛め物思(ムヌミ)することだろう、迷惑かけることになるのだろうとユリは思った。

p73



 

 もし沖永良部島へ来て自らの出自を確認できていなかったら、二十歳の干刈あがたはその後の〈生〉を生きることがなかったかもしれない。“月曜日の兄弟たち”から“暗い唄の旅”にかけての時期は、ほんとうに〈自死〉と背中合わせのところにいたのである。干刈あがたはこの告白を「ユリ」にさせたことによって、“暗い唄の旅”の“旅”を完結させることができたのではないだろうか。ほんとうに危うかった二十歳の「私」の心情を告白することが、この段落“承”の主題である。

 茜と買い物に出た帰りに、海岸の岩陰で二人が昼寝をするのが“転”。ここでは「ユリ」の擬似的な“死”が描かれている。

 
 

 ユリは遠くから呼ばれているような気がして、眠りの底からゆっくり浮上した。どのくらいの時がたったのだろう。ユリの腕をつかんで茜が揺すっている。波の音が聞こえる。だが瞼を持ち上げるのも億劫なほど体から力が抜けているのだ。ずっとこのまま横たわっていたい。潮に乗って沖へ沖へと流されていけばいい。何十年何百年と漂って、もうどこへも帰りたくない。
 ユリは力をこめてやっと瞼を押し上げた。視線に力が入らない。
「どうしたの」
  茜が心配そうにユリの眼をのぞきこんだ。
「なんだか怠くて」
「旅の疲れがでたのかね。慣れない暑さに当たったのかしら」
  ユリはやっと立ち上った。瞼の裏と同じ色の太陽は、まだ水平線に接していない。それだけが血のこごりのように燃えている。周囲の風景がぼんやりとしか感じ取れない海岸線の道を、ユリは力の湧いてこない体をひきずるように歩いた。
 家に帰り着いたユリは夕食もとらずに畳の上に横になると、そのまま眠ってしまった。夜中に厠へ行く力もなくて、裸足で庭に出ると、瞬きながらくっきりとした光を放つ満天の星の下で用をすませて、部屋へ上るとすぐまた眠った。ようやく体に力が戻ってきたのは翌日の夕方だった。

三段目最終節 p78

 

「力が戻ってきた翌日の夕方」の目覚めが“死”からの“再生”である。

 ユリが島を離れる前日に“珊瑚礁”で磯遊びをするのが“結”。

「入江の宴」のために書下され挿入された次の一節は、“死”からの“再生”を終えたユリにふさわしい描写になっている。
 

 沖には光が乱反射している。海面のさざ波に光が揺れている。揺れている光がほんの一瞬ふとした影を隈取る。人形のようにも舟影のようにも見えたそれはすぐまた光にかき消される。船のなかで教師から聞いた、南の海辺をさまよっていると言う神モ―レは、光があまりにもまばゆいから、闇もいっそう濃い南の光と影のあわいから立ち現れる精霊なのだろうか。いつか父と共にこの島へ来る日があるだろうか、自分と父がそのような関係になれる日が、と思いながら、ユリは光と影を見ていた。

p80

 

 ここでは“死から再生”したことによって浄化されたユリが、ひょっとしたら父といつか和解する時が来るかもしれないと思っている、という描写になっている。

 “死からの再生”の“転”から島の親族一同と磯遊びをする情景は、儀式めいていて「入江の宴」の“結”にふさわしいように思う。最終連の前には

 

 血玉が大きくなりにじんで、幾条もの赤い筋が脛を伝って落ちていく。傷口に海水の塩分がピリピリとしみる。その痛みに耐えながら、ユリは足もとを浸している海水に、自分の血が流れこむのを見ていた。

p83


 という“再生”の儀式の結びめいた描写が置かれている。

この作品のタイトルに「入江の宴」が選ばれたのは、それが単なる磯遊びではなく、“暗い唄の旅”の「私」の“死と再生”を祝した“宴”だったからだと考えられないだろうか。

 

二〇〇六年一〇月二二日

 

※諸般の事情により写真画像を省略しました[ HP管理人 ]