(十)「ビッグ・フットの大きな靴」─最も私小説的な母子の情景

 

 干刈あがたは、一九八二年十月に「樹下の家族」で第一回『海燕』新人文学賞を受賞してデビューし、「プラネタリウム」(八三年二月号)、書下ろし「真ん中迷子」(八三年六月)「雲とブラウス」(八三年八月)を加え単行本『樹下の家族』を八三年十月に福武書店から出版している。八四年二月には「ウッホホ探検隊」(八三年九月号)「月曜日の兄弟たち」(八四年二月号)を収録した単行本『ウッホホ探検隊』を、また同年八月には「ゆっくり東京女子マラソン」(八四五月号)、「幾何学街の四日月」(八四年八月号)を収録した単行本『ゆっくり東京女子マラソン』を福武書店から出版している。この他にも八四年は『文学界』五月号に「入江の宴」、同九月号に「ビッグ・フットの大きな靴」、『新潮』十月号に「姉妹の部屋への鎮魂歌(たましずめ)」『海燕』十二月号に「ワンルーム」を発表している。およそ十年間の執筆期間のなかで、八四年はもっとも精力的に仕事をした一年だったと思われる。それは干刈あがたが自分の力量を見据えながら、書くべきテーマを選び、作家としての幅を広げようとした一年でもあったと考えられる。

 「幾何学街の四日月」でこれまで無意識の伏線としてあった、成熟した男と女の物語を描きたいという欲求が見事な失敗に終わり、次年の「裸」(『海燕』四月号)まで抑制されることになる。したがって「ビッグ・フットの大きな靴」では、書き慣れた母と二人の息子の情景がテーマとして選ばれ、元夫や母親、友人夫婦などの登場人物と“私”の距離感を的確に描いている。さらに迷いがない分、作品の設定がこれまで母子の情景を描いたどの作品よりも私小説的になっている。作中の“私”の設定が作家であることから、これまで発表された作品について言及している箇所がでてくるほど、ストレートで率直である。

 干刈あがたの作品には、母と息子の情景がたくさん描かれているが、母と息子の情景をテーマとした作品は、「プラネタリウム」、「ウッホホ探検隊」とこの「ビッグ・フットの大きな靴」だけである。「プラネタリウム」も「ウッホホ探検隊」も作家として特に母親として思い入れが強い作品であり、「ビッグ・フットの大きな靴」にも同じことが考えられる。そのような視点で作品を読んでいくと、次の箇所を見つけることができる。

 

 あれは半年ほど前だったろうか。その日も締切りの翌日で、風邪ぎみでもあった。疲れて横になっている育子の脇で一歩は本を読んでいた。遊びから帰ってきた拓二が、横になっている育子を見て言った。
「おい、早くメシの仕度しろよな。腹が空いているんだ」
 夕食にはまだ少し間がある時刻だった。
「ごめん。疲れがとれたらするから、もう少し休ませて。冷蔵庫にハムが入っているから、サンドイッチでも作って食べておいて」
  拓二はたぶん、食事のことよりも横になっている母親がいやなのだ、と育子にはわかったが、現実にそのときはとても起き上がれそうもなかった。
「パンもねえんだよ」
「買っていらっしゃい」
  パン屋は路地を出たすぐそこで、お菓子を買う時は何度でも気軽に行く。
「いいかげんにしろよな」と拓二がドスのきいた声で言った。「テメエはお袋だろ、お袋ならお袋らしくしろよな」
 自分の仕事にかまけて食事の仕度の手を抜くと、子供たちがてきめんに荒れる、それをわかっていながら出来なかったと、最近、子供の非行で悩んでいるバー経営の女友達が言っていたことを育子は思い出した。体を起こしながらため息をついた。
「テメエなんて言う事ないでしょう。思いやりがないのねえ」
「テメエが悪いんだろ」
「この子は!」と育子が泣きながら組みつくのと、本をバタリと置いた一歩の鋭い声がとぶのが一緒だった。
「拓二、テメエの方こそ、いいかげんにしろよな。母さんは僕たちのために働いてるんじゃないか」
「離婚したのは親の勝手だろ。こっちに迷惑かけねえでもらいてえね」
 拓二が育子と組み打ちながら言い返すと、一歩が立ち上がって拓二を蹴った。
「なんだよ!」
拓二は育子を押えつけているために防げない背中を蹴上げられた口惜しさに涙を溢れさせ歯を食いしばった。育子は拓二と組み打ちながら一歩に叫んだ。
「一歩、やめなさい。これは拓二とお母さんの問題だから」
「いや違うね。俺の問題でもあるね。母さんが疲れて倒れるのを黙って見てるわけにいかないからね」
 三者三様の怒りと口惜しさと悲しみとが三つ巴になって、闘い、抗い、身をもがいた。育子は力では、もうとても拓二にはかなわなかった。押えこまれ身動きできないままに、拓二を見上げて涙を流しつづけた。拓二も育子を睨み、唇を歪めて泣きつづけた。一歩は腕をだらりと垂らして傍らに立っていた。
「拓二、今日はもうやめて。お母さんは力が入らないから、明日やり直すから、放して」
 一瞬、拓二がひるみ、また力を強めた。
「放せよな!」
と一歩がまた拓二を蹴ろうとする。
「一歩、やめなさい!」 
と育子が叫ぶ。
 育子は拓二に押さえつけられたまま、眼を閉じた。
「眼をそらすなよ!卑怯だぞ」 
育子はまた拓二と睨み合った。ああ、もうずっとこのまま、何も考えないでいたい。これでいい。この三人だけでいい。私たちは求め合っている、こんなに激しく、と育子は思いながら涙を流しつづけた。拓二もすすり泣きつづけた。腕が自由になるなら、育子は拓二の背を撫でてやりたかった。
 母親に思いをぶつけて気が済んだのか、拓二はそれから育子に対してやさしくなった。育子も三人の暮しを見つめ直した。
 自分の子供たちの何もかもをしてあげられる母親ではなくなっている。自分の気持も切り替え、息子たちにも出来ることはやってもらわなければならなくなってきているのだ。

「ビッグ・フットの大きな靴」 p194

 

 引用冒頭の「あれは半年ほど前だったろうか。その日も締切の翌日で」とあるのは、この作品の設定が八四年六月であることから、「月曜日の兄弟たち」の原稿だったと思われる。離婚後の家族を描いた三部作「ウッホホ探検隊」の後に、作家としての真の力量を自他ともに問い、知るために書いた中篇「月曜日の兄弟たち」は、力を出し切って書かれた力作だったことがわかる
 この小さな事件は、「月曜日の兄弟たち」脱稿後の疲労感と脱力感にくわえ風邪ぎみで横になっていた時に起こった。「ウホッホ探検隊」に描かれた離婚後もなかなか元夫と他人になれない母親が、この事件を契機に「三人の暮しを見つめ直し」「自分の気持ちも切り替えた」のである。その結果が、冒頭の「朝野家の日曜日ごとの夕食イベント」の描写となり(冒頭前の九行は結びの九行を差し入れたものである)、また次のような元夫と妻の適確な距離感を持った描写となって現れている。

 

 元の夫と妻は逆方向に歩いて行った。
 肩を叩かれて顔を見た時、一瞬誰だかわからなかった。仕事上で会った誰かかしらとチラと考えたことを育子は反芻した。家庭の中にいて限られた人間とだけ関わりを持っていた生活から、急にいろいろな人と会うようになり、このごろ或る話を思い出しても、それを誰から聞いたのかを思い出せないことが多い。かつての夫が一瞬そうした人々にまぎれたのは、生活の変化のせいだろうか。それとも一年半という時間がたったということだろうか、身体は歩き慣れた南口へ出てしまったのにと、不思議な気がした。

「ビッグ・フットの大きな靴」p183


  もう少し推測を膨らますと、この小さな事件があってはじめて、干刈あがたはなによりも母親として、離婚後の三人の暮しの形が見えてきたのである。そして肩の力が抜けて、自分の周囲をリラックスして作家の視線で見つめられるようになったことによって、この小さな事件後に“ゆっくり東京女子マラソン”を書くことができたのではないだろうか。

 「ビッグ・フットの大きな靴」は六七ページの中篇であり、“朝野一歩”がテレビ局の〈ミスター・ビッグ・フットと少年シルクロード冒険隊〉に応募し、オーディションを受けるまでの朝野家の一週間の日常が、段落毎に曜日を変えて描かれている。
 

日曜日 朝野家の日曜日の夕食イベント、テレビ局から電話での第一次テスト
月曜日 国電Y駅で元夫とすれ違う、(「海燕」)の女性編集者と会って(「幾何学街の四日月」)の原稿を渡す、 離婚した林田文乃(道浦母都子)と会う
火曜日 〈女たちは二十一世紀を〉への執筆依頼、半年前の小さな事件、林田満男への手紙、
水曜日 会計事務の仕事、小学校の父母会、一歩の友人の来訪、テレビ局から二回目の電話、母への借金の電話
木曜日 中学校の三者面談、岸田緑子と母親、古本屋のおじさんと拓二、母からはじめての借金
金曜日 印刷会社での深夜の原稿(「幾何学街の四日月」)校正、深夜の帰宅と熊谷直正への電話、
土曜日 顔写真の撮り忘れ騒動、元夫との電話での会話と息子たちの外出、林田満男からの手紙、息子たちの帰宅
日曜日 テレビ局でのオーディション、〈女たちは二十一世紀を〉の回答、ミスター・ビッグ・フットの登場と落選。

 作家・干刈あがたの八四年六月の一週間が、一歩君のオーディションの進行に沿って描写されながら、さまざまな人物を登場させて作品が構成されている。隠された作為や秘められた野心、入念に準備され考えぬかれた構成という作品ではなく、淡々と一週間の日常を追って描写することに作品の意図がある印象を受ける。作品は確かにそのように書かれているが、それでも作家・干刈あがたの危うい姿が、無防備なほど率直に吐露されている箇所があって、却って驚かされる。

 〈いつだったか満男さんと文乃さんに私の遺言状を預かっていただいて、一歩と拓二の後見人をお願いすると言いましたが、本当に弟と妹のような気がしていました。〉

林田満男宛の手紙 p195

 さっき自分は破綻するかもしれないと思ったあの感覚は、家の中にいる時は薄らいでいる。
だが育子は、その感覚をどこまでも追いつめてみたい気がする。ひとりで生きる自由とひきかえの孤独の涯まで行ったら、どうなるのだろう。それを知りたい自分を育子は感じていた。だが拓二の頬に幼さが残っているうちは、まだ猶予期間だ。子供に救われている自分と、縛られている自分とを育子は感じていた。

p214


 「破綻するかもしれないと思った感覚」とは、干刈あがたの幼い頃からの自死願望が表出したものである。この場合は、肩の力が抜けて素直に自分自身を見つめた時に、心の深奥にある本当のすがたが直視されているのだと考えられる。
 この時の干刈の自死願望を誘発するきっかけになったのは、少し前の次のような箇所である。

 (深夜の校正を終えての帰路)街灯の光が自分を非難しているように感じられる。家に何か変事が起こっているような気がする。
 男性たちは深夜家にむかう時、そんな不安を感じることはないだろうか。感じても口に出して言ったりはしないだろうか。何十年と外で働きつづけなければならない男性は、そうした日々に耐えているうちに慣れてしまうのだろうか、私はまだ外に出て日が浅いから過敏になっているのかもしれない、育子はそんなことをあれこれ考えた。
 そして妻たちは家で待ちながら、夫たちが顔を黒ずませてもう口をきく気にもなれないでいることを、疲れているのだと想像はできても、現実の家の外の夫の像として結ぶことはできない。私もそうだった、と育子は思った。
 女性たちが家だけに閉ざされずに自分を生かす場がもう少し開かれれば、男性たちもその分だけ楽になるだろうとおおもとのところでは育子は考えているが、自分の身を分けて子を産み、乳を含ませる女の感性が、家を離れた時に感じる痛みや不安やめまいから、自分はシッペ返しされるかもしれないと感じている。破綻するかもしれないという予感がある。試みの時代の中に私はいる、と育子は思った。家の中でぬくぬくと生きてきた女たちが、甘やかされすぎて夢をみて、失敗した時代があった、と後の世の人々が言うかもしれない。だが、さまざまな試みの中からしか、現実的な答えは出ないのだと思う。

p208~p209

 
 ここの箇所での「破綻するかもしれないという予感」には、戦後家族の解体による〈アジア的な母系的な原型的な〉家族を中核的に支え、担ってきた〈アジア的な母性〉の底深い喪失感が背景をなしていると考えられる(拙論「家族論への試み」)。その喪失感が帰宅してから干刈の“自死願望”に重ねられていくのである。
 干刈あがたはフェミニズムの観点や立場から、作品を取り上げられたり論評されることが多い。確かに干刈もフェミニズムに自ら進んで接近しようとしたのかもしれない。しかし八十年代フェミニズムの大きな潮流に、呑み込まれ、同化されることなく独自の場所で書くことができたのは、干刈が戦後家族の解体に直面しながら、この喪失感を保持し手放さなかったからだと考えられる。そして、この底深い喪失感が作家としての核心部分にあった“自死願望”と複雑に重なり合い不可分に絡み合っていたからである。
 日本の家族は、アジア的な家族の特性として国家や社会から強固に閉じるように保持されてきた。その家族が母系的に維持されてきたことによって、その中核として支え担ってきたアジア的な〈母性〉は〈後進性〉を背負わされることになった。これが八十年代フェミニズムの思想的な根拠であったと考えられる。戦後家族が解体していった時、私たちは家族という共同性のなかでしか持ちつづけることができなかった多くのものを失った。この家族という原型的な姿が喪失される過程は、一方でまた、女性たちが社会性や世界性を獲得して後進性(アジア性)から離脱していった不可避的な過程でもあった。
 干刈あがたは、このような解体や喪失であると同時になにかの、〈はじまり〉であるような二重性にひき裂かれながらアジア的な〈母性〉の終焉を自らが演じてしまったことを作家としての出発にしたのである。内奥にあるさびしい“自死願望”と戦いながら、である。
 最後にせっかくだから、干刈あがたが自作について言及している箇所を拾い出してみよう。

 

樹下の家族  その夜育子は、何に苛立ち、何を求めているかわからない自分の気持を確かめるように書き、その気持が自分一人のものかどうか知りたくて応募した、二年前の新人賞の結果発表の前日の日記を読んでみた。
〈私をこえたものの手に運命をゆだねます。私の言葉が歩き出す意味があるなら旅立たせてください。どんな傷をも覚悟で努力します〉
いったい自分は何を始めてしまったのだろうと、育子はその文字をしばらく見つめていた。

p189

プラネタリウム  文乃は小説を書いている途中で「このままでは前へ進めないわ」と電話で言った。それは育子が別れを決めた時とよく似ていた。
「私の新人賞の時、文乃さんはスイトピーの花束を持ってきてくださったでしょう」
「スイトピーじゃないわ、ええとね・・・・ああ、花の名前を思い出せないわ」
 文乃はもどかしかった。
「あの紫色、忘れられないわ。自分の机もなくて食卓で、あの花を見ながら二作目をかいていたのよ。夫とうまくいかなくなっている女が、母親として、両親の気配を察している子供たちの姿を見ているというものだった。その最後の一章がどうしても書けなくなったの。それならお前はそういう状態をどうするのだという問いをつきつけられて、自分の気持をはっきりさせなければ書けなくなった。それで離婚届を区役所へ取りに行って署名捺印して夫に渡して、やっと最後の章が書けたの。息子たちにとっては迷惑な話よね」

p188

ウッホホ探検隊 本の好きな一歩は育子の応援者でもある。書くだけ書いてしまっておいた離婚の小説の原稿を読み「出してもいいよ。小説は同じ思いをしている人のためでもあるんだから」と言ったのは中学一年の時だった。

p203

 干刈あがたは「ビッグ・フットの大きな靴」を最後に母子の情景をテーマとした作品を書いていない。それは作家として母親として、離婚した母親と二人の息子の家族の姿が見えてきたからだと考えられる。この作品が私小説的に書かれた理由はそこら辺りにあるような気がしてならない。

 

二〇〇八年六月一日

 

※諸般の事情により写真画像を省略しました[ HP管理人 ]