(十二)「ワンルーム」─ “樹下の家族”から“ビッグ・フットの大きな靴”までの離婚前後の“私”を三人称の文体にして静かに振り返っている作者

 

 「ワンルーム」は、前稿「姉妹の部屋への鎮魂歌」の結びで言及したように、干刈あがたが作家としてデビューしてから内部の衝動に突き動かされるように書き継いできた、離婚した家族をモチーフとした連作が一段落したことによって、それらをもう一度トータルな視線で俯瞰しようとした作品である。したがって一人称の“私”ではなく“大坪律子”という三人称の文体になっている。しかしそのような作者の隠された意図とは別に、「ワンルーム」は段落毎に登場人物や主人公が違う手法で書かれた社会派中編小説であり、八〇年代家族の解体の姿が“壷屋ビル”に入居しているそれぞれの家族の姿として描かれている。

 「ワンルーム」の舞台になっている“壷屋ビル”と登場人物のアウトラインは、すでに“樹下の家族”に“四谷80ビル”として登場人物像も含め全97行の描写によって提出されている。“四谷80ビル”と“壷屋ビル”の入居者はほぼ対応しているので比較してみると

  四谷80ビル 壷屋ビル
オーナー 桶屋 1F 骨董屋 1F、4B、8F
 
入居者 柴田 7F・柴田デザイン事務所 大坪良治 大坪デザイン事務所 7F
  律子
  自称実業家(ころがし屋) 広田 広田興業 3A
 
  老貿易商 矢口老人 6B
 
  建築士 宮園祐介 宮園建築事務所と住居 7F
  広告代理店の社長 久我山 現代情報社
  (会計士) 鵜沢 鵜沢(弁護士)事務所 5B
  医療機器のセールスマン 六洋商事・ロングヘルス(株)
  柴田太郎・二郎 男の子兄・弟
    このほかに4A坂本典子、2Fフランス料理店 「小舟」、宮園祐介の妻・弓子、大坪良治が再婚 した妻・久美子が「ワンルーム」では登場している。

 

 “四谷80ビル”と“壷屋ビル”との入居者の設定の相違点で重要だと思われるのは、宮園弓子と坂本典子、大坪久美子が加わっていることである。坂本典子は“私”のまさしく分身であり、もう一人の“私”である。また登場するすべての女性像が“アジア的な母系的な”母性像の最後の姿として提出されている。また干刈は「ワンルーム」ではじめて、元夫と再婚した妻・久美子と元妻・律子が税理事務の引き継ぎのため、喫茶店で会話を交わす段落21を設定している。
 この「ワンルーム」で試みられた手法─主人公を段落毎に変えながら作者が全体を統括する文体─は、すでに「ゆっくり東京女子マラソン」で駆使されており、この一年後に書かれる「しずかにわたすこがねのゆびわ」でさらにもう一度使用されることになる。干刈あがたがこの手法をたいへんうまく使いこなし、作品としても成功させているのは、干刈の特異な資質である“見る”という俯瞰視線が作品に投影され統括しているからだと考えられる。
 干刈は前作「姉妹の部屋への鎮魂歌」で、結婚して子供を産み育てた頃の“私”が、新しい平凡で穏やかな家庭を持ったことで自身の危うい自死願望からどれだけ解放され、救済されたかを書くことができた。「ワンルーム」ではその後が、作品で言うと「樹下の家族」から「プラネタリウム」、「ウホッホ探検隊」、「ビッグ・フットの大きな靴」までの、結婚生活が破綻をむかえ、離婚し、離婚後の母子の暮らしが落ち着く頃までがカバーされている。
「ワンルーム」は、“壷屋”ビルの入居者のさまざまな人間模様のなかに作者である“私”ではなく“大坪律子”を登場させ交差させながら、離婚前後の“律子(=私)”について描いている。それは「ウホッホ探検隊」の一人称でしか描けなかった未熟な文体と描写を俯瞰視線を駆使した三人称の文体と描写にリメイクしたいという干刈の無意識の欲求があったからだと考えられる。その目的を達成させるために選ばれたのが「ワンルーム」の文体と手法であり、“坂本典子”という“私”の分身と前夫の再婚した妻・“久美子”の登場だったのではないかと思われる。作品としての「ワンルーム」は、作者のそのようなサブモチーフと関係なく“壷屋ビル”に入居したさまざまな人間模様を描いた味わいのある社会派・中編小説である。
 段落1~27までを作者のサブモチーフに焦点を当てながら、作品を統括している作者の俯瞰視線がどのようなものであるのか、いくつか段落を見ていきたいと思う。
 

(1)

 宮園祐介・弓子夫妻と壷屋ビルの紹介

「今日も一組、5Aを見にきたのよ。でも、ちょっと無理だと思うわ。ここを買うには若すぎる。」

「感じのいい夫婦だったけど」「住居用なのか」「いえ、主人の事務所用ですって」

これは大坪良冶・律子夫婦についての宮園祐介と弓子の会話部分である。導入部におけるストレートな伏線であり、この中篇が大坪良冶・律子を中心にして展開していくことを暗示させている。

(2)

 「彼女は窓際を離れ、真ん中の踊り場を抜けて、裏側の住居のドアを開けた。事務所とは違う匂いが籠っている。夫の匂いだ。換気装置は完備しているし、事務所にも夫の匂いはあるはずなのに。住居の方には夫の膚の匂い、息の匂いが濃密に籠っている。それが気になって仕方がない。」これは弓子についての描写であるが、これとほぼ同じ描写が「樹下の家族」の“四谷80ビル”のところにある。

これらの描写は夫婦関係がすでに崩壊しかかっていることを暗示させ、「ワンルーム」ではワンルームマンションに住むことの不安に重ねられるように描写がつながっている。

彼女は窓を開け放った。眼の下には低い家々の瓦葺の屋根が見える。二つの裏通りには、このビルに入るまで住んでいた家も見える。ここに移ってから何人の人と応対したことだろう。初めて夫と住んだ古い木造アパートや、今は地方の大学へ行っている息子が小さかった頃の思い出が沢山ある、裏通りの家での静かな暮しがなつかしい。夫の匂いに神経質になったり、なんだか閉ざされているような気がするのは、管理人の仕事のせいばかりでなく、更年期障害かもしれない、そんな年齢なんだわ、と思いながら芯に力がないように感じられる体をソファに横たえた。」このような“弓子”の独白という形で提示されている時代的な背景や世代的な感受性は、作品のアウトラインを規定している。

(3)

 八〇年三十七歳の大坪律子─引越し直後の律子の期待と不安

「樹下の家族」ではこの段落で描写されていることが一人称で描写されている。

しかし「ワンルーム」では一人称の文体を三人称変えたことによって、「樹下の家族」では決して描写できなかっただろうと思われる表現を見つけることができる。

自分はまだこの地下鉄駅のことはほとんど知らない。だがやがて知るだろう。鏡やトイレやごみ箱がどこにあるか、どこにどんな匂いがするか、どこにどんなシミがあるか。そして少しずつこの街が私のものになってくる。と楽しい想像をしながら彼女は階段を上った。

『これ、洗濯物を持って帰るから、出して』洗面所から紙袋を持ってきた大坪は、妻に渡しながら『すぐ帰るの』と聞いた。彼女は次の言葉を待った。その膚触りと匂いにしばらく触れていない頬と顎は、それきり動かない。『うん』と彼女が頷いた時、黒くて艶のあるために硬そうに見えるが、触れると柔らかい妻の髪がふわりと揺れるのを大坪は見た。」これらの抑制された肉感的な表現が、律子の不安と切なさの入り混じった描写になっている。

(4)

 壷屋ビルと骨董屋・壷屋主人の紹介

壷屋は焦立たしい気持で表の通路を見た。気持のよい一定した自分の棲かに不快なものが侵入してきたのは、すべて都市再開発という道路拡張工事のせいに思える。店を構えていても商いは顧客名簿で充分成り立っていたので、隣り近所とのつきあいも最小限でやってこられた。古い家屋敷が半分削られることになった時、宮園祐介がやってきて、店舗併用住宅の建築をやらせてくれと申し出た。宮園の妻と死んだ妻が親しかったのだ。」ここでも“古い家屋敷”から“壷屋ビル”への変化に戸惑い・苛立っている構図が提出されている。

(5)

 坂本典子と元彼

坂本典子の段落には迷いやためらいはなく、決断と意志がある。それは作品のなかで、宮園弓子や壷屋の妻、大坪律子がこれまでの伝統的な古いタイプの母性像(=女性像)として描かれ、坂本典子がそのような後進性から離脱してゆく女性像を託されているからである。

(10)

 干刈は「ワンルーム」で壷屋の先妻と後妻老いた義母、鵜沢の妻、弓子、典子、律子、久美子、矢口老人の老夫人までさまざまな女性を描写している。そのすべての女性像について言えることは、壷屋ビルが古い家屋敷を壊して建て直されたように、だれもが新しい女性像を予感しながら古い女性像の終焉に戸惑っている姿であるということである。つまり終焉がただ古いものが解体したというのではなく、ふかい喪失感として表現されている。

(11)

 大坪デザイン事務所

律子が扉を閉めて出る音を聞きながら、今日も大坪と律子は直接口をきかなかったと橋口は思った。

段落③「大坪律子」では、壷屋ビルに引越して間もない頃の大坪デザイン事務所の様子と夫とますますすれ違ってしまう妻・律子の不安が描写されていた。ここでは妻・律子の不安がさらに増幅されている。

(13)

 大坪良治─“私は男の人を深く愛せないのではないか、ひどく冷たい女なのではないか”(「ウホッホ探検隊」)の夫の側からの描写

あの時、本当に息子が入ってきたのだったらよかった。遊びにおいでと電話をかけようと思っても、妻のいつも気持を抑えているような表情と声を思い出すと、その気持もひっこんでしまう。だが今日はこのパンダを持って帰ってやろうと決心する。ふつうの男が無意識にできる家に帰るという行動に、努力が要るようにいつのまにかなっている。なぜ妻はここに来ると、あんなにおどおどするのだろう。なぜ俺の眼を見ないのか。なぜあんなに、枝を切り詰められた樹のような表情をしているのか。

(16)

 夫不在の深夜の大坪デザイン事務所=破局

午前零時~明け方までの5A室の窓から見える叙景描写のみでこの段落は成立している。

段落⑯の結びは夫婦の破局を象徴するちょっと芝居がかった描写で結ばれている。

彼女は窓を開けたまま向き直って部屋の中を見た。いつも人間のいる部屋を見ていた。部屋そのものを見るのは初めてだった。部屋には三つの風景がある、と遠くからこの部屋を思う時、いつも考えていた。部屋の中にいて見る部屋の中の風景。部屋の窓から見る外の風景。部屋の外から見たらこの部屋がどう見えるかと想像する風景。夫はこの部屋にいて何を考えているのか。私のことをどう考えているのか。妻が自分のことをどう思っていると想像しているのか。

 でももう、何も考えなくていい。この部屋はガランドウなのだから。なんという解放感だろう。

 エレベーターで下りる時、彼女は開けたままの窓からの雪が吹きこみ、部屋いっぱいに舞う風景を想像した。

 壷屋ビルを出ると彼女は一気に駆け出した。そして交差点の真ん中に立ち止ると、両手をひろげ雪を受けながら、くるくると舞った。(段落⑯結び)」

「ワンルーム」には「樹下の家族」「プラネタリウム」「ウホッホ探検隊」のなかで描かれた場面と重なるところがある。これら三部作が一人称の「私」の視点からでしか当時描くことができなかったものを、作者の高みから俯瞰した視線で表現し直したものが「ワンルーム」という作品だということができる。そして夫の不在=破局を“なんという解放感だろう”と“律子”に言わせている危うい「ワンルーム」の作者がいる。

(17)

 坂本典子とその年下の恋人・野田一也。

 重要な段落⑯の次に来る段落⑰は、作品がどこへ・どんな収束をするのか、作品展開の方向を決める重要な段落である。この段落で坂本典子はバツ一の三九歳であり、野田一也は三一歳だと描写されている。この設定は「幾何学街の四日月」の“私と時雄”の設定と類似していて、坂本典子と野田一也を“私と時雄”の「ワンルーム」バージョンのように読むことができる。「幾何学街の四日月」の本流部分は明確な失敗作だったけれど、傍流部分として挿入された“空気屋本舗”はテンポのいい軽快な文章でまったく別な作品を読んでいるような感じだった。そこに出てくる“私と時雄”の部分は素直な筆運びで作者の本音や地が出ていそうで、案外本当に近いことが描かれているように思えて、印象に残っている。その箇所はこんな具合である。

私は帰ってくるまで心配だった。中学一年の少年が母親の男友達にどんな感情を持つのかが、わからなかった。時雄と私とは一人で生きる者の共感を持っていて仲がいい。性的な関わりは薄いが無関係ではない。何度か彼のアパートへ行ったことがある。そうした匂いを輝がどう感じ、どう反応するかが心配だった。(「幾何学街の四日月」)」

このときの“時雄”は三二歳という設定であり、“私”は離婚した翌年であることから四〇歳ということになる。これは単なる偶然ではなく、干刈あがたが“坂本典子と野田一也”の設定に“私と時雄”を重ねて描こうとしたのではないか。段落⑯の失意の“律子”をそのように救済しようという作者の隠された意図ではないのか。

“坂本典子と野田一也”の段落⑰は、気持ちよく淀むことなく流れるように描写されている。干刈は坂本典子像をもう一人の“私”だったかもしれないと仮託しながら造型しているように思われる。そのように思えるほど素直に流れていく描写がつづくのである。段落⑰の終わり近くに干刈が離婚してからくりかえし考え、片時も忘れることができなかった離婚後の干刈にとっての最重要フレーズ「私はもともと、人と一緒に暮らしていけない女なんじゃないかと思うのよ。」を坂本典子に言わせている。

(21)

税理事務を引き継ぐ大坪久美子と律子

 干刈あがたが「ワンルーム」という作品を執筆しようと思い立った時、この“久美子と律子”をどのように・いかに出会わせるかを執筆の最重要課題にしたと考えられる。このような作者の意図は目立つことなく、「ワンルーム」は社会派・中編小説の佳篇に出来上がっている。少し誇張した言い方をすれば、作者は“久美子と律子”の出会いを描くために段落毎に主人公を変える文体を選び、そのために作品構成の段落を巧妙に配置したのではないか。その結果として「ワンルーム」が中編の力作に仕上がっているのは干刈の作家としての実力である、というふうに理解できないだろうか。そのような視点で作品を見ると“起”が段落3・壷屋ビルへ引越したばかりの“律子と大坪良治”、“承”は段落⑬・大坪良冶の「なぜ妻はここへ来るとあんなにおどおどするのだろう」であり、“転”はいうまでもなく段落⑯の叙景描写、“結”がこの段落21ということになる。したがって段落21“久美子と律子”には「ウッホホ探検隊」の“私”をリメイクしたいという干刈のエッセンスが詰め込まれているはずである。

しかし後半部の独白部分は不可解である。ちょっと文脈を逸脱しているのではないかと思えるほど冷静ではないのである。少し長くなるが後半部の独白部分(全文)をみてみよう。

私が嫉妬し憎んだのは、この街、あのビルだった、と律子は思う。夫を取り籠めたこの街、あのビル。私にはどうすることもできない相手。夫と私とは憎み合ったのではない。ほんのちょっとしたズレがだんだん大きくなっていったのだ。家と土地に棲む女と、ビルと街で時間を過ごす男とのズレ。
 私、負けたくなかった。負けたくない。この街、あのビルに。街もビルも人間がつくったものなのに、今度はそこに住む人間を変えてしまう。でも何かが壊されて、そこで終ってしまったら、街やビルに負けたことになる。
 壷屋ビルの隣にある十二階建の煉瓦造りの〈カタツムリ〉ビルの螺旋階段を上っていく人の上半身が見える。むこう側に消えたと思うと、高い位置にまた現れる。ビルの下を人が行き交っている。巨大なビルの下を行き来する人間は、柔らかくて生ま生ましい。
 だから私、子供たちをこの街から切り離さないでおきたいの。母親の家と土地、父親のビルと街、その両方を行き来して……それはとても不安なことだと思うけれど……そのどちらも体で知っていて、どちらにもとらわれないで……そんな生き方が、子供たちに何をもたらすのかはわからないけれど……。
 今は新しくて堅牢に見えるあのビルも、いつかは崩れるのだ、その時この街はどんな風景になるのだろう。歯の欠けた〈アラン・ドロン〉や、禿げたりシミの浮き出た〈校長先生〉や、萎びて疲れた〈お嫁さん〉。ぼろぼろになった〈シルクハット〉や、ヒビ割れた〈ジレットGⅡ〉。でもそれまでには何十年何百年とかかる。
 いまこの街は若くて刺激的でとても美しい。
 私、本当は今でも好きなんです。失いたくないんです。いいえ、今の方がずっと深く結ばれている。もう夫がどんなにこの街に、あのビルに取り籠められても、苦しむのは私じゃない。
ああ、古い街並みの最後の生き残りの〈気苦労の種おばさん〉は、もうなくなっている。
『今この街は若くて刺激的で、ほんとうに美しいわね』
唐突に笑って言う律子の半顔を、久美子は見つめた。(段落21後半部全文)」

 この後半部を何度読み返しても、どのように理解したらいいのかわからない。なぜこのような独白を“律子”にさせたのだろうか。後半部最初の「私が嫉妬し憎んだのは、この街、あのビルだった、………夫と私とは憎み合ったのではない。ほんのちょっとしたズレがだんだん大きくなっていったのだ。家と土地に棲む女と、ビルと街で時間を過ごす男とのズレ。」“家と土地に棲む女”と“ビルと街で時間を過ごす男”の対立の構図は、そのまま「ワンルーム」の基本的な構図と重なっている。しかしなぜ“久美子と律子”の対面の直後にこんな独白をさせたのだろうか。“律子”が元夫に未練があるとは思えない。元夫と結婚した“久美子”への忠告としては婉曲すぎる。ここでいちばん問題なのは、干刈が男と女の問題を直視しないで、“家と土地”と“ビルと街”の対立の問題と混同していることである。私の考えでは、日本の家族は戦後“家と土地(屋敷)”とが切り離され、社会に対して強固に閉じられていた家族が社会に対して開かれたことによって、これまで長らく母から娘へと受け継がれてきた母系的な家族意識が解体された。その結果、日本家族は男として女として初めて社会へと露出し、“LOVE”と直面したのである(拙論「干刈あがた論四」)。このとき“律子”がほんとうに直視しなければならなかったのは、突如目の前に出現した“LOVE”だったのではないか。“家と土地”には“LOVE”はないが“家族意識”だけはある。しかし“ビルと街”の男と女には“LOVE”がなければなにもないのである。干刈が男と女の問題を“家と土地”と“ビルと街”の対立の構図でしか考えられないのであれば、干刈は日本的な家族意識の側に自らを立たせざるをえない。この段落21の不成功=自らの誤解が次作「裸」を産み出す内圧力になっていると考えられるし、この段落への不満が後年「窓の下の天の川」の“みず江と佳子”の電話での会話となってダメだしをされたのではないかとも思われる。干刈の誤解は、独白の終り部分で次のように“律子”に言わせることになる。「私、本当は今でも好きなんです。失いたくないんです。いいえ、今の方がずっと深く結ばれている。もう夫がどんなにこの街に、あのビルに取り籠められても、苦しむのは私じゃない。」“家と土地”と“ビルと街”の両方を行き来する子供たちを介して、離婚したことによって感情的なもつれがなくなった元夫と元妻は、以前より深く結ばれている、という解釈しかしようがない。ここには母系的(=後進的)な家族意識だけがあり、“LOVE”を介した一対の男と女の視点がすっぽりと欠落している。この段落は作者にとって隠されたクライマックスのはずだったけれど、作者の目論見が外れ、「ウッホホ探検隊」と本質的には同じところで干刈あがたの未成熟さが露呈してしまった。この段落は“結”として成就しなかったけれど、段落毎に主人公が違う「ワンルーム」としてはけっして破綻ではない。内向的でちょっと精神的なバランスの悪い“律子”の思い込みとして、アジア的な母系的な家族意識の終焉の側面が面白く描かれている。

(23)

宮園祐介・弓子夫妻の夕食

 ビル管理の仕事で対人関係に疲れ、神経質になっている弓子を寝かせた後、祐介は自分の建築設計の仕事について長い述懐をしている。そして述懐の最後は「この年齢まで一度も浮気の経験のない自分を恥じることなく、また誇る気もない。自分に合った妻を持って、ごく自然にそうしてきただけだ。だが妻のしかめた眉を見ていると、なぜか自分が不当に妻を苦しめているような気がしてくる。(段落23結び)」と結ばれている。このような祐介の深い戸惑いと弓子の深い疲労感が一対のものとして、八〇年代家族は家族の解体に直面していたと考えられる。「私、どうかなりそう。矢口さんはいなくなるし、大坪さん夫婦は半年前に離婚していたというし、広田さんの管理費は五十万円近くも滞納だし、もう私、管理人をやめたいわ。ねえ、管理会社に請負ってもらうことはできないの。もう私、だめ……」

(24)

坂本典子の日曜日

 干刈あがた作品に私が魅かれるのは、どの人物を造型してもあるいは自分自身をモデルにした作品でも、解体と喪失が同時になにかのはじまりであるような“すがた”が描かれていることである。「ゆっくり東京女子マラソン」の家の中の女たちの“立ち姿”は、干刈あがたにしか描けなかったものであり、もう二度とあのような作品は産まれない。この段落の次の箇所は、映画のフィルムを凝縮したような濃密な描写になっているが、まさしく干刈あがたにしか描くことができなかったものである。

「荒い息を吐き、髪を振り乱して発散させた自分の中の毒気のようなものを、最後に指先から滲み出させているような気がする。祖母が暗い部屋で針仕事をしていたのも、チクチクと指先を動かしながら、自分の中から何かを吐き出し、自分をなだめていたような気がする。明るい部屋に一人で住んでいても、女の体の中には毒気のようなものが澱んでくるのだと典子は思う。時々たまらなく焦立ち、部屋じゅうの掃除をするのだ。
 この前の掃除をしてから一ヶ月ほどの間に、こんなに抜けていたのかと思うほどの、手のひらにのった毛髪の鞠に見入る。もつれからんだ髪は女の怨みの執念のようだ。典子はそうしたものから逃げられなかった母や祖母とは違う生き方をしているが、それでも女の一人暮しの部屋はこんなものを産み出す。母や祖母が椿油や白粉の匂いのする鏡台の引き出しの奥に、懐紙に包んでしまっておいたものを、彼女はいさぎよくポリ袋の中に投げ捨てた。気持はすっかり落着いている。(段落24)」

 ここで表現されているのは、干刈が幼少時に見ていた母や祖母(家の中の女たち)の姿である。しかし典子や作者である“私”は彼女たちがいた場所にもはや立つことはできない。その深い喪失感と乖離感こそ干刈作品の真髄ではないかと思っている。
 中編・社会派小説の佳篇として干刈あがたの作家としての力量が発揮された「ワンルーム」であるが、干刈の構想と出来上がった作品のズレがどこにあったのか、知ることができた。このズレを正面から見据え取り組んだ作品が、次作「裸」であり、この「ワンルーム」の試みが次次作「しずかにわたすこがねのゆびわ」につながっていったではないかと考えている。

二〇〇九年五月三十日