(十一)「姉妹の部屋への鎮魂歌(たましずめ)」─自死願望の少女が妊娠・出産・母親へ

              母親になった少女期の“私”となれなかったもうひとりの少女期の“私”

 

 『ふりむん/コレクション・島唄』のなかの“Ⅳふりむん経文集”に〈少女の部屋への鎮魂歌〉という詩がある。この作品の中ほどにも全行が引用されている。この詩はなかなか理解するのが難しい。推敲に推敲を重ねた技巧的な詩ではなく、作者の心の中の思念が無意識にことばとなって現れたという詩である。したがってこの詩が出てくる段落の最後に干刈が書いているように「〈少女の部屋への鎮魂歌〉という唄は、もし私のためのものだとしたら、赤ん坊が死んだというのは少し変だ、やはり彼女(双子の妹の澄子)に何かあったのだろうかと、私は何度もその唄の意味を探った。」この詩の意味を何度も探ったのは、この詩を書いてしまった干刈自身であったはずである。赤ちゃんが生まれて母親としてほんとうはいちばん幸せな時に、なぜこのような不吉な詩を書いてしまったのか、干刈自身にもよく分からなかったのではないだろうか。しかしこの詩は、イメージが自費本「ふりむん/コレクション・島唄」の美しい表紙(装丁は夫・浅井潔氏)にもなっているほど、干刈あがたにとって重要な詩であったと思われる。

 「姉妹の部屋への鎮魂歌」という作品は、かつて結婚し子が生まれ母親となって幸せなはずの時期に、なぜ私は〈少女の部屋への鎮魂歌〉という詩を書いたのだろうか、その時から十数年を経た作家・干刈あがたの解答がモチーフになっているのではないかと考えられる。(詩〈少女の部屋への鎮魂歌〉は、全行が「再論五『ふりむん・コレクション』と干刈あがたの自死願望」で載録参照)
 デビューから一貫して干刈あがたは、幼少女期から離婚前後までのさまざまな自伝的な題材を作品として描いてきた。だからといって私小説作家ではない。それは、作者の自伝的な題材が時代を俯瞰するような個人的な普遍性(=実存)と重なっているところで作品が書かれ、提出されているからである。その意味で干刈の作品はどれほど私小説的に、あるいはどれほど自伝的に書かれていようともすべてフィクションである。私たちは作品を読んで、自伝的な題材が描かれていることだけを了解し、どれほど小説的な真実が赤裸々に描かれていようと、私小説的な告白がなされていると読むべきではない。干刈あがたの作品は平易に描かれているようで、何層もの(個人的な普遍性という)フィルターで濾され、吟味されていて、単純ではない。
 「姉妹の部屋への鎮魂歌」では、まだ夫婦円満だった頃(次男を妊娠した一九七二年春)の結婚生活が描写されている。ここで干刈は、幸福な結婚生活の描写と“私”のつらい幼少女期の記憶を対比させて描写している。そしてもうひとりの“私”である双子の妹・澄子を登場させ、留学先のフランスからの日記風の手紙を場面転換と舞台回しに使っている。干刈が長男を出産し、続いて次男を妊娠した頃、つまり父母の家庭とは別の家庭生活を経験し、自身が母親になったことによって、ほんとうにつらかった幼少女期の体験が鎮魂されているように感じたのではないだろうか。これが詩〈少女の部屋への鎮魂歌〉の意味するところのものであり、そうであったからこそ夫の浅井潔氏によって美しい表紙に装丁されることになったのである(詩の理解については“「再論五」で言及)。小説「姉妹の部屋への鎮魂歌」では、少女期の記憶を呼び起こし、それを現在の“私”が俯瞰している場面が要所に配置されている。それらの簡潔で無駄のない透明な文章を読むと、干刈が自らの幼少女期を鎮魂していることを察することができる。

      (作品冒頭の夢のシーン)

 誰かに階下から呼ばれているような気がして、ドアを押しあけた。ドアのむこうにはまたドアがある。幾つものドアをあけて、ようやく明るい陽ざしが窓に揺れている部屋に出た。
 影を落として揺れているのは花梨の樹。
 少女はゆっくりと南向きの窓に歩いて行く。そんなことをしていないで早く階下に降りなければ。早く降りなさい。花壇づくりを手伝いなさいと父さんが呼んでいる。少女は窓をあけた。
隣りの二階家の灰色のモルタル壁に光が揺れている。父さんがいっしょうけんめい花壇をつくっていたころ、南隣りにはまだ家はなかったのに。少女はそれから東の窓をあけた。バス通りのむこうに、桜の樹のある空き地が見える。
 こんどは階段の踊り場の北向きの高窓をあける。私には背伸びしている少女の背中と、少女の見ている風景とが見える。ずっとむこうの林の中に教会の三角屋根。屋根の上の白い十字架。
その風景を見ているのは少女の私。少女を歩かせているのはこの私。

p87


 干刈がほんとうに穏やかに静かに少女期の自分を振り返っているのが理解できると思う。この穏やかさは結婚生活の充足感と対になって描写されているように思われる。

  結婚して、椎の樹のある夫の家で初めての大晦日を迎えた夜、零時少し前にまず教会の鐘が高い音で鳴り渡り、そこからこの寺の除夜の鐘が余韻をひいて響いてきた。障子のむこうの廊下を通って玄関へ行く、大学生と高校生の義弟の足音が響き、下駄を履きながら兄と嫂を誘う声が聞こえてくると、私はコートを着た。長兄である夫の達也と四人で夜道を歩いて行き、蝋燭の火の揺れる提灯の並んだ寺で鐘を一つ撞き、そこから数分で行ける八幡神社へ初詣にまわったのだった。

「嫂さん、ここは神様と仏様とキリストが守っているから幸福になれますよ」

 仕事一筋で新婚の妻にもあまり構わないように見える兄を補おうとするように、大学生の義弟が言ってくれたが、私はそんなふうに大晦日を過ごせるだけで充分に幸福だった。

p89

 干刈の結婚生活はこのように始められ、長男を出産し、翌年次男を妊娠した頃まで充足した日々は続いていた。その頃の干刈は、「伸也とお腹の子が幼稚園に入り、学校に入り、やがて成人して家を出て行く。そして私はこの土地で平凡に年を取っていければいい。平凡でも、周りにいるすぐれた人に、その手よし、と言えるようなものを自分の中に持てればいい」と考えていた。そして“花梨の樹の家”のことは
 

 私は今でも何かに追われているような夢にうなされ夜中に眼が醒めて、傍らに眠っている夫や伸也の顔を見て、ああ私はもうあの花梨の樹の家にいるのではないとホッとすることがあります。この家に来たばかりのころ、あまりの静けさに不安を感じたのは、周囲に騒音がないためばかりではなく、いつも気持の安らぐことのなかった実家から離れた安心感に、まだ慣れていなかったのだろうと思います。
 子供もできてようやく穏やかな生活が持てた、そこへ災難が追いすがってきたような気がしました。母さんが近くに来たら、父さんの眼光が私に向けられる、と私は怯えました。夫や子供を実家のいざこざに巻きこみたくないという気持が、私の皮膚を鎧のようにしました。

p96文中の“澄子”への手紙の下書き

 またその頃の自分を干刈は次のように自己分析している。

   「私はとても子を産む気ににはなれないわ」

   とあなたが言っていたのと同じ気持は、私の中にもありますが、伸也を見ているとそうした気持が薄れていくようです。いえ、そうした気持は変らずに自分の中にあるけれど、明かるいところから暗がりを見る時のように、光を放っている伸也を見ている今は、自分の中の暗がりがよく見えない。いや、それとも違う。自分の現在の暮しの静かな明かるさと、自分の中にある闇との間に立って、明かるい方に心をむけようとしているようです。

p99“澄子”への手紙


 このような微妙な心の均衡が、この頃の干刈にとってどれほどの救いであったか計りしれなかっただろうと思われる。たぶん二十歳の時に沖永良部島を訪れ、自身の出自を確認した時の解放感と、この頃の妊娠・出産を経て母親になったことの充足感は匹敵するだろうと思われる。
 干刈は文中に詩〈少女の部屋への鎮魂歌〉を引用した後、次のような文章を続けている。

 

    うすあかり うすくらがりの部屋の中

    ほんとの少女はどこ行った

      少女王国ぬけ出して

      母たちの国へ行きました       〈少女の部屋への鎮魂歌〉最終節

 

 私には見える。夕方の窓辺から外をみている、背丈も体つきもよく似た二人の少女の背中が。
子供のころ妹と私はよく二階の部屋で、バス通りに面した東の窓から、父が帰ってくる前の空を見ていた。空が茜色から薄桃色に変り、やがて赤味が消えて、あたりが藍色に染まるまで。
それは不安と不思議な幸福に充ちた時間だったような気がする。バスから父が降りてこないと、その宙づりの幸福がひきのばされる。父の姿が見えると、私たちは家というものの現実の中に墜落するのだった。

p110


 この透明で美しい文章は、この作品の中の珠玉である。この文章を書いた干刈あがたに肉薄し論じることができれば、この小論の目的が達成されるはずである。この双子の姉妹のモチーフは、結び近くで次のように締めくくられている。

 

 商店街の造花の紅葉の下を、伸也の手を引き、母と並んでゆっくりと歩いて行く。数日前に届いた妹の手紙の間から、マロニエの枯葉が一枚こぼれ落ちた。それが、父と母の離婚が決済されたことを伝えた私の手紙を読んだという、返事の言葉のかわりだと私にはわかる。
 一つ部屋で暮した私と妹が、階下の父と母の声を聞いていた時、二人は同じように息をつめ、同じように立ち上る衝動に駆られていた。私の方が一瞬早く立ち上ったために、現実を引き受ける役をし、妹の方は自分の中にとり残された。ほんの一瞬の違いで一緒だった二人が剥がれた。妹は私であったかもしれない。

結び前p122


 「姉妹の部屋への鎮魂歌」(『新潮』十月号)は、「ビッグ・フットの大きな靴」(『文学界』九月号)の後に、中篇を七作書くという超多忙だった一九八四年後半に書かれている。前作「ビッグ・フットの大きな靴」で考察したように、干刈は「月曜日の兄弟たちを」を脱稿したこの年の初め頃、息子たちと小さな事件を起こした後、離婚後の暮しのあり方をみつける。それまでどこかで離婚後の張り詰めた緊張があったものが、ようやく力が抜けて、自分自身の結婚生活を振り返ったとき、結婚し子供を産み育てたことによって、どれだけ自分自身が救われていたか改めて気づいたのではないだろうか。「樹下の家族」「プラネタリウム」「ウッホホ探検隊」「ゆっくり東京女子マラソン」「幾何学街の四日月」「ビッグ・フットの大きな靴」と書き継がれてきた離婚後の“私”を題材にした作品は、「姉妹の部屋への鎮魂歌」で結婚生活に救われ充足していた“私”を認め、描くことができたことによって、終止符が打たれたのではないかと考えられる。干刈あがたの“離婚した家族の姿を書く”というモチーフが完了し、次作「ワンルーム」から作家としての新しい場所で作品が描かれることになる。

二〇〇八年七月五日

 

※諸般の事情により写真画像を省略しました[ HP管理人 ]